from 北海道(道央) – 44 - 「足許」を見つめる、2011年の元旦。

(2011.01.01)
国道5号を札幌から小樽方向へ向かい、JR小樽駅を通り過ぎて2つめの信号左手に、「龍宮神社」の鳥居がある。勾配の厳しい小樽の坂道。自動車で登っていくには少々厳しい。
小樽「龍宮神社」社殿。

 
2011年元旦。小樽「龍宮神社」から。

2011(平成23)年の幕開け。皆さま、いかがお過ごしでしょうか?
今年も「エリアナビ(北海道)」は、小樽の正月からスタートします。

昨年の元旦は、小樽で最も大きな神社である「住吉神社」詣のご紹介でしたが、今年は自宅から最も近くにある神社、「龍宮神社」詣。JR小樽駅から徒歩で7分、自宅からも徒歩で8分程度のところにあります。

社殿自体はそれほど大きな神社ではないのですが、北海道開拓の歴史を鳥瞰すると、この神社から学ぶことはとても大きいのです。

 

「龍宮神社」の境内には榎本武揚の銅像が……。なぜ??

右手に「羅針盤」、左手に「万国海律全書」を持つ榎本武揚の銅像。

小樽「龍宮神社」の境内には、榎本武揚の銅像があります。
正月早々、多少長い文章になりますが、お付き合いくださいませ。

榎本武揚(えのもと・たけあき。1836(天保7)10月5日–1908(明治41)年10月26日)。

江戸・御徒町の生まれ。幼少の頃から「昌平坂学問所」にて儒学や漢学を、ジョン万次郎の私塾にて英語を学び、蘭学、航海術、現代であればノーベル賞の対象となったかも知れない「化学」など、幅広い分野を学ぶ。

さらに、オランダ留学後、軍艦「開陽」にて帰国。幕府海軍の実質的トップとなる。が、勝海舟との確執などの経緯もあり、大政奉還後の戊辰戦争においては、旧幕府軍(逆賊)を率いて函館・五稜郭へ。「蝦夷共和国」総裁として、独立国を目指して薩長中心の新政府と対峙したが、1869(明治2)年5月、函館・五稜郭の戦いで破れる。

戦いに敗れて自決を決意した榎本は、新政府軍総参謀であった黒田清隆(くろだ・きよたか。1840(天保11)年11月9日- 1900(明治33)8月23日)に送った書状の追伸に「この書物2冊は、自分がオランダ留学中に苦心して研究した『万国海律全書』である。いまの日本にとって失ってはならない貴重なものと思い、ここに謹んで日本海軍にささげるものだ」(『青雲の果て-武人黒田清隆の戦い』奥田静夫・著。北海道出版企画センターからの引用)と渾身の一筆とともに、本2冊を黒田に送ったそうです。

これまでの榎本の経歴に加え、この書状に心を打たれた黒田は、「この人間はこれからの国家にとって重要な人間だ」と判断し、降伏した後の榎本の助命嘆願に奔走し、ともに「北海道開拓」などを通じた近代国家形成に向けて、生涯の友情を築いていくことになりました。

榎本武揚自筆の「北海鎮護」の文字が、彫り込まれている。

 

自分の住む小樽の街の「足許」を見つめる。

2008(平成20)年、榎本の没後100年という節目の年。榎本所縁の東京・函館・札幌・小樽に「榎本武揚没後100年記念事業実行委員会」が結成され、それぞれの実行委員会が各都市で記念事業が行いました。

小樽では各種事業のほか、記念事業の一環として、同実行委員会が中心となり銅像を制作しました。

その銅像が2009(平成21)年6月完成し、榎本が建立したといわれる「龍宮神社」の境内に、銅像が設置されたのです。
 
黒田の庇護を受け、開拓使として再度北海道へと渡った榎本は、「小樽が天然の良港であり、北海道の発展に大きく寄与する」と判断し、同世代でもあり、琵琶湖疏水計画、函館港修築、滝川・旭川間の鉄道建設計画で名前を残し、後の北海道庁長官となる北垣国道(きたがき・くにみち。1836(天保7)年9月17日 -1916(大正5)年1月16日)と共同で、1873(明治6)年、小樽市・稲穂町と富岡町の土地20万坪(約66万m2)を明治政府から購入しました。

「龍宮神社」は稲穂3丁目にあり、私の住んでいる富岡とともに、なんと、榎本武揚所縁の土地だったのです。

榎本らは土地管理会社「北辰社」を立ち上げ、現在の小樽の中心商店街の原形を作りました。

その際、「移民の安意や航海安全を図るため、アイヌ民族が祭場としていた御鎮座地に武揚公の遠祖たる桓武天皇を合祀」し、「北海鎮護」と献額し龍宮神社を建立したと伝えられています。

 

混沌とする「時代」だからこそ。

榎本は、「北辰社」を立ち上げたその年のうちに小樽を離れたものの、その後もことあるごとに小樽へと足を運んだようです。

榎本武揚の雅号(文人・画家・書家などが、本名以外につける風雅な名。ちなみに自分の雅号は「Nowhere Man」(笑)。)は梁川(りょうせん)。榎本によって開かれた街は、その雅号に因んで「梁川(やながわ)通り」と呼ばれ、榎本の記憶を現代に伝えています。

どうやら政治的にも国際情勢についても「きな臭い」と感じる混沌とした「時代」を迎えたように感じているのは、恐らく自分一人ではないはずです。
 
まさに、このような混沌とする「時代」において、仮に昨日の政敵同士であったとしても、「この人間はこれからの国家にとって重要な人間だ」と判断し、榎本の助命嘆願に奔走した黒田清隆と榎本武揚のような関係を構築していくことこそ、「近代史から我々が学ぶべき姿」なのではなかろうか。

2011(平成23)年の元旦、龍宮神社に詣りながら、そのようなことを考えてみたのでした。

皆さんとご家族が、平和で楽しい一年を過ごされますことを、心からお祈り申し上げます。

今年も引き続き、『WEBダカーポ』にて、よろしくお付き合いくださいませ!!
 

地域によって、また各家庭によって「お雑煮」に入る具は異なるでしょう。我が家は、お餅の他に、豚肉と牛蒡というシンプルなもの。年末に続いていた肝臓の疲れを休ませるには、丁度よい(笑)。
小樽市・富岡の地から眺める正月の「天狗山」。正月からナイタースキーを楽しむ方も多い。