from 山梨 – 24 - 皆のもの、勝鬨をあげようぞ!
~第41回信玄公祭り。

(2012.04.20)

武田二十四将が続々集結、出陣。

1573年(元亀4年)4月12日。
この日、前年より三河徳川領国への侵攻(『西上作戦』)を続けていた甲斐の守護大名武田信玄公が、持病悪化のため甲斐へと撤退している途上、信濃駒場(現在の長野県下伊那郡阿智村)で陣没しました。

この記事を書いている今日、4月12日は信玄公の命日。
この日をはさんで山梨県内では、あちらこちらで様々なお祭りやイベントが催されます。
中でも最大規模のお祭りが、1970年に始まった『信玄公祭り』。
今年41回目を迎える『信玄公祭り』が、4月6日(金)から8日(日)の3日間、甲府を中心に開催されました。
昨年は震災の影響で中止となったため、今年は2年ぶりの開催です。

3日間に渡って開催される『信玄公祭り』のメインイベントは、2日目に行なわれる『甲州軍団出陣』。
県内各地から武田二十四将の武将らが各々軍勢を率いて甲府へ集結、出陣式を済ませた後、戦場へと出陣していきます。
総大将武田信玄公、軍師山本勘助をはじめとした武田二十四将に騎馬武者、槍や鉄砲、弓を備えた足軽1,500余名が馬標や流し旗を風になびかせ、勝鬨を上げながら進軍する様は実に見ごたえがあります。

ちなみに武田二十四将とは、江戸時代の浮世絵などの題材となった、武田信玄公に仕えた武将の中の、一般的に評価が高いとされている武将のことで、信玄公存命中に存在した呼称でもなければ、この二十四将が同時期に信玄公に仕えていたというものでもありません。

私が戦国モノに関心を持つようになった最初のきっかけが『武田二十四将図』でした。
何かの企画展でポスターになっていたこの絵を見た時に、「全国支社長会議だなこれ」と思ったのが興味の始まり。
集まっている支社長(武将)たちの会話が脳内でイキイキと再現され、それまでしかつめらしくとっつきにくい印象だった戦国武将たちが、一気に人間的な魅力に溢れた身近な存在になったのでした。

山本勘助役は3度目の伊吹吾郎さん。沢村一樹さんの信玄公姿は撮る事ができませんでした…無念。
甲冑武者を眺めていると……。

ところで武田軍の戦といえば、越後上杉軍との間で1553年から1564年の12年間に5度もの合戦が繰り返されたとされる『川中島の戦い』が有名ですね。
そして一般的に『川中島の戦い』と言えば、中でも最大の激戦と言われた1561年(永禄4年)の第四次合戦八幡原の戦いを指す事が多いようです。
その八幡原の戦いで、武田軍が送り込んだ兵の数は2万人。
『信玄公祭り』のために甲府 駅周辺に集結している兵の数は1,500余人。
450年ほど前に、目の前の10倍以上の兵を率い、8日間で川中島に布陣した行軍の統率力に、感心せずにはいられません。

また、実際に甲冑や指物、刀、槍、弓などを身につけた人に聞くと、思いのほかあちらこちらにぶつかってしまい、それ故に周囲の人との間には想像以上の間隔が必要なのだそう。
その言葉通り、装備した武具をあちらこちらでぶつけて持て余している足軽たちの様子を眺めていたら、ひとつの疑問が沸いてきました。
前述の第四次合戦で武田軍は2万人の兵を、本隊8,000人、別働隊12,000人の2つに分け、後者を上杉軍が陣を張る妻女山へと向かわせたというけれど、深夜1時頃に海津城の裏辺りから山に入って6時間ほど、12,000人は山の中で一体どう動いていたのだろうか……。

ふと思いついて、シーズンになると登山道の渋滞映像が報じられる富士山の登山者数を調べてみました。
参考にしたのはコチラ → 2011年度の富士山登山者数統計
この統計によれば、1日あたりの登山者数が一番多かった7月17日(日)で、吉田ルート、富士宮ルート、須走ルート、御殿場ルートの4ルート合計が9,961人だそうです。

統率力や訓練度、装備、登山ルート、そして何より山そのものが全く違うので比較にならないけれど、4つのルートに分かれて富士山山頂を目指しても登山道が渋滞してしまうことを思うと、12,000人は1列で妻女山を登って行ったわけではないだろうなあ、でもいくつかに分かれて登って行ったとしても、ある程度のまとまった部隊が歩くことのできる場所は限られているだろうし、同時に武田別働隊の動きに気付いた上杉軍が下山していたというし……ああ、妻女山に行きたい。

六文銭は真田幸隆隊の赤備え。嫡男の真田信綱隊も出陣しています。
『砥石崩れ』で殿軍をつとめて討死した、弓矢巧者の横田高松隊。
甲冑武者と勝鬨の街、山梨。 

話をお祭りに戻して、と。
私がこのお祭りを楽しいと思う一番のポイントは、県内のあちこちで朝から装備を整え支度をした武者たちが、甲冑姿のまま終日ウロウロしていることです。

ウロウロというと聞こえが悪いけれど、例えば甲斐市が参加した板垣信方隊は、朝10時半から甲斐市の山縣神社で山県昌景隊と共に神事などを執り行った後、バスで甲府へ向かう山県隊を見送ってから快晴の空の下、神社の境内で甲冑姿のまま昼食をとり、最寄の竜王駅へ移動して出陣式を行ない、そのままJR中央線普通列車に乗って甲府駅へ移動。
甲府駅南口の信玄公像の前で記念撮影をしてから、少し離れたところに張られた陣屋へ移動して、しばらくそこで過ごした後に、甲府駅南東にある舞鶴城公園へ移動。
その後、甲府駅南口へ移動して出陣式に参加し、いざ出陣。

JRを利用した甲冑武者の移動というのは今回初めての試みだったそうで、翌朝の地元紙にはJR中央線で出勤、もとい出陣する板垣信方と副将がつり革につかまっている姿が掲載されていました。
このJRによる移動を除けばほとんどが徒歩。

背中に所属隊の標を染めた指物を付け、腰に刀を差して槍や弓、鉄砲を持った甲冑武者が1,500人ほど、メインイベントである『甲州軍団出陣』の行列以前の昼間から文字通りあちらこちらをウロウロして、自由に街中で勝鬨を上げているというわけです。

そして、武者の姿が見えなくても、遠くからその声が聞こえてくる。
そんな風景が誰にとっても当たり前になってしまうのだから、こんなに楽しい日もないなあ、と思うわけです。

甲府集結前、甲斐市山縣神社に参拝し、出陣契りの儀などを執り行う山県昌景隊と板垣信方隊。
バスで甲府へ向かう山県隊を見送る、板垣隊大将の板垣信方と副将。この後、境内でお弁当を食べてJRで甲府に向かいます。
骨太の戦国歴史絵巻として。

この日甲府を訪れた人の中には、「去年はお屋形様の出陣を見る事ができなかったので今年は是非にと思い……」と、驚くほど遠くから足を運ばれていた方や、甲府駅周辺に4カ所設けられた陣屋を回って全隊を探し、各隊の大将と一緒にカメラにおさまっていた方、青空に翻る馬標や武将名旗を仰ぎ戦国の時代に思いを馳せている方、舞鶴城公園の稲荷櫓や石垣をバックに満開の桜の下であちこちの足軽とカメラにおさまる方等々、思い思いに甲州軍団の出陣を満喫している様子でした。
また、外国人の方も多くいらっしゃいました。

昨今の戦国ブームや、2007年の大河ドラマ『風林火山』が特筆するほどの視聴率ではなかったけれども大河ファンの中では比較的評価が高かったらしいという話を聞くにつけ、この『信玄公祭り』は現代の価値観をもってしてユルいものへとおもねてしまうのではなく、公式ガイドの表紙にあるように、日本の魂としての戦国時代の勇壮さや情熱、そしてやる瀬なさを伝える戦国歴史絵巻として続いて欲しいなあと強く思った次第です。

この『甲州軍団出陣』はかねてより『日本一の武者行列』(らしい)と聞いていて、武者行列日本一ってことは世界一だよなあ、なんてことを思っていたのですが、今回『LARGEST GATHERING OF SAMURAIS(侍の最大集合記録)』としてギネス世界記録に認定されました。
認定方法は、出陣前にJR甲府駅南口の長さ約360メートル、幅約10メートルのエリアにロープを張り、その中にいる『侍』の数をカウントするというもの。
ギネス側による『侍』の条件は<1>胴やすね当て、手甲を着用している<2>刀はさやに入れ、左の腰に差している-などで、結果は1,061人だったそうです。

ギネス登録で弾みをつけて、来年はさらに盛り上がりが期待できそうです。

山梨県議会による、信玄公嫡男、武田義信隊。甲冑も位も高そうですね。
武田騎馬隊。テレビや映画で描かれる騎馬隊の信憑性はともかくとして、とにかくカッコイイ。なのにピントはどこへ…無念。

信玄公祭り公式サイト