from 岐阜 – 6 - 長良川母情 第6話 ~自分で摘んだ野草茶で癌をも撃退! 白鳥町お宿「あづまや」の大女将~

(2009.06.30)

「私らの娘時代は『男衆の下駄を跨いだだけで子が出来るんやで、おまんたぁ気いつけろよ』って言われたもんやて」。長良川鉄道、美濃白鳥駅を西に向かった白鳥橋。長良の川堤で行き会った老女は、懐かしそうに笑いこけた。郡上市白鳥町のお宿「あづまや」の老女将、曽我綾子さん(87)だ。腰を曲げ土手のドクダミを摘む綾子さんと、何故か意気投合。いつしか身の上話と成り果てた、そんな挙句の台詞だった。何でも腸の癌が胃に転移し、自分で調合した野草茶を毎日煎じて飲み続けているとか。花梨、柿の葉、熊笹、桑の葉、蓬、甘茶蔓、ハコベラにドクダミを、春になると毎年せっせと自分で摘んで歩くそうだ。「私は暢気な性格でたぁけ面しとるで、たとえ癌でも流行り風邪と一緒みたいなもんやて」。薬草茶を飲み始めてからと言うもの、さすがに病が消え果ることは無いものの、それ以上に悪化することも無いのだとか。現に顔の色艶もよく、おまけによく笑う。まるで箸が転んだだけでも笑い転げる生娘の様だ。

「そりゃああんた、漢方薬のせいやわ。それで汗っかきの身体に改良されたんですやろ」。昔取材で訪ねた、紀州徳川家お抱えの薬師(くすし)の末裔は、汗かきで困りますと軽く相談したはずのぼくを、にべも無くそう一言で斬り捨てた。

ぼくが中学2年生の頃、今を遡る36年前。くしゃみと鼻水がどうにも止まらず、朝から晩まで頭がボーッ。当然授業など頭に入るはずも無い。今でこそ花粉症と言う大層立派な病名が付けられているが、当時は花粉症等と言う言葉すら存在していなかった気がする。それが証拠に内科医の診断はアレルギー性鼻炎。毎日毎日注射を打たれ、頭はも一つおまけにヌボーッ。何処からが自分で、何処までが自分であるかさえも鬱(うつ)ろだった。さすがに大雑把な母も見るに見かね、近所の薬局に相談し市販の漢方薬を買い求めた。恐らく水泳の授業で頂戴した、陰金田虫の薬を買いに行ったついでに。

「これは頭もボーッとせんし、眠くもならんらしいで、ちゃあんと朝昼晩の三回飲まなかんよ」。母は葛根湯と書かれた、顆粒の薬を差し出した。それ以来、葛根湯はアレルギー性鼻炎の薬だと信じ込み、およそ2~3年ほど飲み続ける羽目に。何事も、信じるものは救われる。いや、ぼくのアレルギー性鼻炎は救われた。気付けばいつの間にか頭のボーッも、くしゃみも鼻水も止んだ。だが今となって思い返せば、それと入れ替わりに暑がりで汗っかきになっていた気もする。

「そりゃああんた、葛根湯は身体を温めて熱を放出させるんやで、汗かいても仕方ありませんわ」。薬師のご明解。でも本当は、大人になってから薄々気付いていた。葛根湯がアレルギー性鼻炎のための薬では無いことに。それが恐らく風邪の薬であることも。しかし貧しい我が家の家計を遣り繰りし、内職のお金で保険も利かぬ高価な漢方薬を飲ませ続けた母を思うと、どうにもただの風邪薬だったとは思いたくなかった。

「まぁ、あんたも騙されたと思って飲んでみやぁ」。綾子さんに連れられ、「あずまや」へと上がり込んだ。「あんたは初心者やで、番茶で薄めといたんやて」。若女将に差し出された湯飲みを傾ける。ほんのりと甘い味わいが喉元に広がり、湯気と共に野の馨りが鼻腔をやさしくくすぐる。まるで在りし日の母が、陽だまりの土手にしゃがみ込み、摘んでくれたようなとっておきの薬草みたいだ。「美味い! もう一杯!」。思わず口を吐いた言葉に、綾子さんが生娘のように笑い転げた。そして急須を取ろうとソファから徐に立ち上がり、曲がった腰に手を当て伸ばし始めた。きっと母も、腰を庇うように土手から立ち上がったであろう。「よっこらしょっと」。何処からとも無く母の声が、鼓膜ではなく脳裏の彼方で聞こえていた。

*岐阜新聞「悠遊ぎふ」2008年6月号から転載。内容の一部に加筆修正を加えました。

 

<追記>

若女将の話によれば、綾子母さんはその後も持病は悪化せず、何やかやと忙しい毎日を送っているとか。それもこれも、綾子母さんが生まれ育った土地で採れた、ほんのり甘い薬草茶の成せる業か。

 

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