from 岐阜 – 2 - 長良川母情 第2話 〜 郡上市高鷲町の分水嶺東側、ペンション・喫茶 わたすげのはるみさん 〜

(2009.06.02)

「きっと左が旦那で、右の華奢な方が嫁さんなのかなぁ?」。健気に寄り添うような長良川源流の名瀑「夫婦滝」。17メートルの落差で大日岳に清められた聖水が、滝壺へと一直線に注ぎ込む。一面真っ白な雪化粧、眼前の苔生した岩肌を氷柱が覆い尽くす。このわずかに上流、長良川源流の碑からほどない場所に、一つ目の橋とされる下ノ叺橋(しものかますばし)はあった。だがどこをどう見渡してみても、人っ子一人現われるわけではなく、人家すら一軒も見当らない。ただ大日岳の清流だけが片時も休まず、寡黙に太平洋を目指し下り続ける。
「父が荘川村からここへ移り住んだ戦後間もない頃は、まだ周りに5~6軒しか家がなかったんやて」。郡上市高鷲町の分水嶺東側、ペンション・喫茶『わたすげ』を営む直井はるみさん(57)は、テーブルにコーヒーをセットしながら笑った。

はるみさんは昭和25年、営林署に勤務する父の元で一人っ子として誕生。中学を出ると愛知県木曽川町の繊維関係に就職。郷里に残した両親を案じながらも、高度経済成長に沸く時代を謳歌しながら娘時代を送った。

昭和46年、隣りの集落から信一さん(58)を婿に迎え、3人の子を生した。「結婚してしばらくしてから、母と民宿を始めたんやわ。スキー客目当てで、たったの5室やったけど」。名古屋や関西、遠くは四国からも常連客の学生たちが訪れ、小さな民宿は若者たちの笑い声で賑わった。「まあちっさな民宿やったで、お客さんもみんな家族みたいなもんやって」。学生たちもやがて社会人に。そして結婚。今度は夫婦や家族ぐるみで訪れるようになった。「みんなからお母さんお母さんって呼ばれて。本当の母親みたいに慕われるもんやで、ついつい情が移ってねぇ。今では親戚以上の親戚付き合いやわ」。

昭和62年には、老朽化した民宿を建て直し、現在のペンションへと改装を済ませた。「平成になって間もない頃やったかなぁ? 愛知県からスキーに来とった男の子から電話があったんやて。『ぼく結婚することになったで、お母さん仲人しに来てくれんか?』って。最初は戸惑ったけど、これも何かの縁やろし夫婦で仲人させてもらったんやて」。はるみさんはカウンターの中で、真っ白な湯気を上げながらコーヒーを淹れる夫を見つめた。

ストーブで温まった喫茶店の店内。窓ガラスを結露が伝い、一筆書きのような奇妙な文字を残しゆっくりと流れ落ちて行く。降り積もった雪に埋もれる分水嶺公園。白樺林を縫うような小川が、ここを境に日本海と太平洋とに流れを分かつ。右へ進路を切れば日本海。左へ向かえば太平洋。か細い大日岳の清流は、山を一挙に駆け下りやがて大河となり、それぞれの大海を目指し大いなる旅を続ける。人の一生もこれまた然り。何時か何処かで分水嶺のような分岐点に差し掛かかっては、時の勢いや風を読み進路を定める。善くも悪しくも、流れに抗うことなど叶わぬのが人の道。

「実の子は3人やけど、民宿のおかげで沢山の子を授かった気がするんやわ。だから雪が降り始めると『ただいま~っ!』って声がして、今にも誰かかれかが帰って来る気がしてならんのやて。だからいつ帰って来てもいいように、取って置きの『お帰りっ!』を用意しとかんと。だってわたしはあの子らにとって、雪国の母なんだから」。

長良の源流で出逢ったはるみ母さんは、今夜もスキー客を母の深い慈愛で包み込む。

*岐阜新聞「悠遊ぎふ」2008年2月号から転載。内容の一部に加筆修正を加えました。

 

<追記>

転載の許可をいただこうと、久しぶりにはるみ母さん(ぼくらよりほんの少し上なので、この表現では失礼かも知れぬが)の生声を電話口で聞いた。取材時とまったく変らぬ明るい口調で、「わたしなんかの話でええんやったら」と、即座に快諾をいただけた。
分水嶺の一面を覆い尽くした雪もすっかり消え去り、屋号でもある「わたすげ」が初夏の訪れを、ひっそりと待ち侘びていることだろう。

 

Googleマップ: わたすげ

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