from 仙台 – 13 - 男は、行動力!

(2011.03.30)
海岸線の松林まで、すべて流された光景。

 

東北地方太平洋沖地震で被災された皆様に謹んでお見舞い申し上げます。
また、私と私の会社が仙台ということで、多くの皆様よりお見舞いや励ましのお言葉、
をいただきましたことに、心より深く感謝申し上げます。

 

24日8時発の復興の最初の高速バスに飛び乗り、私の地元仙台の被災地を回ってきました。

初日に家族、友人関係の安否確認に参ったのですが、当日500人くらいに連絡し、明るく元気でやっていると言っていたほとんどが、被害を受けていたのでした。

家族が流された後輩、倒壊で家をなくした多くの友人、2週間経っても自分の会社内に入ることさえできない親友、津波で押し寄せた海水がひかず、家の2階に寝泊りしている石巻の友人家族、彼女のことを探しに2週間タクシーをチャーターするマブ達、みんなで走って逃げ切ったが他の所員が後ろに誰もいなかった所長、踊りの稽古に行った際、90歳になる踊りの師匠のお母様を最初に助け、自分は、水没する車のドアが奇跡的に開き、泳いで帰ってきた、私より先輩の女性、皆々口を揃えていうことは、命があることに感謝だということ、しかし、避難所を尋ねると着の身着のまま来た多くの老人がおり、生きていることがよかったことなのかと話す80代の方や、命より大切なものがあると言って行方不明になられている方がいるという。

二日目は、最初の報道ででていた多くの被害を受けた荒浜海岸に弟と自転車で行きました。仙台市の西の果てにある自宅から、中心部を抜けると、津波の影響か、風が急に冷たくなり、仙台バイパスを越える頃には、潮の臭いさえ感じるようになりました、古い建物も崩壊していて、もっと雰囲気が変わったら戻ろうと話していたものの、よく映っていた警官が通行止めにしていた東部道の地点まで緊張していたのか知らないうちに来ておりました。

やはりそこからは入れず、同じ道を戻るのもなんなので、右折するとトンネルがあり、多くの被害があった地点に入ってしまいました。写真はその光景ですが、テレビではよくがれきが山になっている光景が写りますが、約2、3キロの間、多くの住宅があったと思うのですが、あるのは倒された海岸線の太い松の木だけで、すべて海に流されておりました。

その日は、震災の日と違い、穏やかで明るいお天気の暖かな春の日でしたので、その想像を絶する惨劇との日常と非日常とのあまりのコントラストに言葉を失いました。本当に残酷なものです。

2キロ先まで流されてきた松の巨木。
5キロ先まで流されてきた漁船の頭。

自分の目で見て確認し、リアルを伝えたいと帰ってきましたが、まだまだ私は整理がつきません。

皆さんにお願いがあります。政治家の方は、これからの政治のため、経済家の方は、これからの経済のため、この現実を見に来てください。そうしないと一生説得力の無い人間ではないかと後悔されるだろうし、非常時に力のある方しか、人の上には立てないと思います。

芸術家は、ここで絵を書き、ミュージシャンは、ここで歌を作りここで歌ってください。一つになるためには、ここにあつまり、共感しなければ、この想像を絶する災害を乗り越えることはできないと思います。

みんなで愛し合いましょう。

今は、愛すこと愛されることが一番の幸せで何ものにも変えがたいと思います。

最後になりますが、仙台にも自衛隊から警察、消防、ガス、電気、電話また外国からも多くのレスキュー隊に来ていただいており、不眠不休で復興活動をしていただいており、心から市民は、深く感謝、尊敬しております。本当に勇気と力いただいております。

また、私の友人のお母さんと生協に並んでいたとき、ばったり会って、うちの主人が今から使命感で福島原発に行くんだと目を輝かして言っていました。テレビで東京のレスキュー隊の話で感動いたしましたが、原発側にも多くの使命感を持った方がおられるとのことです。愛がすべてを支えるのですね。

男は、行動力です。私も作品を今作っております。次の平和と未来のために、