from 岐阜 – 12 - 長良川母情 第12話 ~梲(うだつ)の揚がる町屋~

(2009.08.11)


梲(うだつ)の町屋が続く、美濃市の旧市街。黒塀に囲まれた庭先きから、綻び始めたばかりの梅の花をまとった老木が、枝を伸ばし道往く人の目を誘(いざな)う。微かな春の予感に導かれ、小倉山の麓から長良川へ。河畔には今も上有(こうず)知(ち)の川湊灯台が聳(そび)え立つ。古(いにしえ)の船頭たちはここで荷を積み降ろし、穏やかな川面を眺め至福の一服を燻(くゆ)らせたであろう。

「おいっ坊主、これ一本やろか」。今から37年ほど前、中学生だったある日。胸を肌蹴た鯉口シャツに、鉄錆に汚れたニッカーズボン、そして地下足袋姿。鳶職のオッチャンが赤ら顔で、コップ酒を煽りながら紋次郎いかを差し出した。紋次郎いかとは、長楊枝に刺したいかの味付け煮だ。親友のシンちゃんの母が営む酒屋の立ち飲みには、夕暮れ時を待ってましたとばかりに、何処からとも無く職人たちが寄り合い、コップ酒片手に今日の憂さを晴らし合う。そんなオッチャンたちにとって、紋次郎いかは無くてはならない優れものの肴だった。おそらく紋二郎いかの名前の由来は、テレビドラマ「木枯し紋次郎」が口に咥えた長楊枝との共通点からだろう。薄汚れた道中合羽と三度笠姿で「あっしには関わりのねぇこってござんす」と、感情を押し殺して吐き出す台詞は、当時の流行語にもなった。

ぼくは鳶のオッチャンから、大喜びで紋次郎いかのご相伴に預かる。まず、いかを唾液でふやかしてから平らげ、その後は紋次郎気取りで件の台詞を口にしたものだ。シンちゃんの母はそれを傍目に、いつも笑い転げていた。その年の夏休み。その母が、倉庫の裏の川で溺死したとの知らせが。あまりにも呆気ない急な死に、通夜に訪れた誰もが言葉を失い、ただただ瞳を潤ませた。「スマン。遅なって」。紋次郎いかの鳶のオッチヤンや、立ち飲みの常連客が、いつもの作業着のまま弔問に現れた。「シン坊、淋しなったなぁ。でもわしらも一緒や。女将さんは、わしらみたいなん相手に、一つも分け隔てせんと一杯売りして、愚痴を聞いてくれよった。『今までおおき。あの世でゆっくりしいや』」。厳(いか)つい両の手を合わせ、何(なに)憚(はばか)ることなく男は声を上げすすり泣いた。実の母の死より悲しいと。

「家自体が年代もんやで、西側に傾いちゃってね。百年以上前に造り酒屋を買って、小売を始めたそうやわ」。美濃市相生町の今廣(いまひろ)酒販店、四代目女将の川井殖代(たつよ)さん(67)は、帳場の大黒柱を指差した。道理で店の中の時間は止まったままだ。中の間を仕切る千本格子に階段箪笥。天井には明り取りの天窓、それと壁掛け式の電話機。さすがにどれも梲の揚がる大店の証だ。女将は21歳で上之保から嫁ぎ、二男一女の母に。「嫁に来た頃は、両親とお手伝いさん、それに番頭と使用人もいて大家族やったわ」。それから間も無く半世紀。「ただ子を成し、店を守ってきただけやて」。無欲に笑う女将の横顔と、在りし日のシンちゃんの母の顔が重なった。

何事も気張り過ぎぬが心地よい。たとえ生涯梲は揚がらずとも。

*岐阜新聞「悠遊ぎふ」2009年2月号から転載。内容の一部に加筆修正を加えました。

 

<追記>

梲の町並み。美濃和紙を張った行灯に、明かりが燈る。石畳には打ち水。浴衣姿で小粋に下駄を鳴らし、束の間の涼を求める美濃の宵。日本人に生まれたことが、誇らしく思える瞬間だ。美濃の暑い夏は、これからが本番。長良川畔の花火が終わり、秋風が吹き始めれば、梲の町並みを舞台に美濃和紙あかりアートが繰り広げられる。

 

Googleマップ: 12 今廣酒販店

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