from 北海道(道央) – 38 - 「北海道の母なる川」。石狩川河口付近を探索。

(2010.08.31)
石狩川とつながる茨戸(ばらと)川には「船着場」が設けられている。

北海道の母なる川。石狩川。

東京の隅田川のように、船でゆったりと川を下りながら、陸上の景観や橋をくぐりながらその地域の歴史を探る。なんとかそういう体験を、北海道でもできないものだろうか。そういう思いを色々な人たちに語っていると、意外と賛同される方がいたりする。
 
大雪山系「石狩岳」の西斜面に「石狩川」の源流があると言われています。今回は残念ながら「日本一」ではないのですが、石狩川は、流域面積では利根川に次ぐ14,330km2で全国第2位、河川延長は268kmで信濃川、利根川に次いで全国第3位、さらに流域市町村数は48(支流を含む)、流域内市町村人口は約308万人と、北海道内全人口の約55%の生活や生産にかかわっているという、まさに「北海道の母なる川」なのです。
 
明治の開拓期やそれ以前、「道(みち)」さえなかった当時、石狩川は「川の道」。「北前船」が海を通して北海道と全国各地との交易に大きな役割を果たしたように、石狩川も、石狩湾から旭川・苫小牧方面とを結ぶ交易に重要な役割を担っていたのです。
 

茨戸川で水上スキーを楽しむ方を発見。
石狩川に架けられた一般国道231号「石狩河口橋」(全長1,412.7m)を船上から眺める。斜張橋の美しさとともに、側面に施された風による橋の揺れを防ぐ工夫(青色の部分)が発見できる。1976(昭和51)年に完成し、これによって約120年の歴史を有した「石狩渡船」は1978(昭和53)年3月31日に廃止となった。

何も産み出さない「泥炭地」が、我が国の「食料基地」へと変貌を遂げる。

ちなみに、今年は「石狩川治水100年」の節目の年。1910(明治43)年に「石狩川治水事務所」が設置され、アメリカ式「自然主義」を河川工事に採用しようとした岡崎文吉(おかざき・ぶんきち)氏が初代所長となりました。

この「自然主義」に基づく河川工事は、石狩川特有の「泥炭(でいたん)」によって難工事、かつ、膨大な財政支出を伴うことから、その後、淀川修築工事で実績を残したフランス流河川工学の先駆者であった沖野忠雄(おきの・ただお)氏が所長に就任し、「捷水路(しょうすいろ)主義」へと石狩川治水工事は大きな変遷を迎えたそうです。
 
そして、この100年の間に、本川延長364kmが約100km短縮され、流域における洪水による被害が大幅に軽減されるとともに、農地として使える可能性がなかった石狩川流域の「泥炭」の土地は、「我が国の食料基地」として重要な役割を担うまでの穀物の一大生産地へと変貌しました。このことは、先人の偉大な足跡として、北海道に生まれ育った私自身としては「感謝の念」を抱かずにいられません。
 

石狩川から眺めた「石狩灯台」。
石狩川の河口。波立っている写真奥側が「日本海」。

水戸光圀公からチョウザメまで。

歴史をさらに遡ると、1688(元禄元)年、水戸藩主であった徳川光圀(とくがわ・みつくに)は、大船「快風丸(かいふうまる)」を建造させ、石狩付近を探検するために滞在させたという記録が『快風丸渉海記事』に残されています。その後、北前船による交易が発達し、松前藩によるアイヌの人々との交易が盛んになり、その交易を行うことができる地を「場所(ばしょ)」と呼びました。中でも「鮭」は、当時の蝦夷地(えぞち)から本州方面へ送り出す交易品の中心でした。
 
1694(元禄7)年には、鮭の豊漁・海上安全を祈念する「石狩弁天社」が建立され、主神は「弁天さま」ですが、石狩地方に住むアイヌの人々によって石狩川の主(あるじ)と伝承される「チョウザメ」を神格化した「妙亀法鮫(=通称「サメ様」)大明神(みょうきほうこうだいみょうじん)が1825(文政8)年に祀られており、アイヌの人々の伝承と和人の信仰とが習合した「石狩独自の神」として、現在も石狩市・弁天町に祀られています。

「ロシア人の乱獲によって、チョウザメは石狩川からいなくなった」との記録が散見されますが、和人が蝦夷地に来る前に、ロシア人が石狩川に来ていたのが事実であるとすれば驚き、というより大変なことである(笑)。
 
また、1858(安政5)年には、現在の石狩市・八幡(はちまん)町に「蝦夷総鎮守」として「石狩八幡神社」が建立され、当時の石狩川河口付近の賑わいが、既に移転されているとはいえ伝わってきます。
 
1789~1800年までに石狩川流域の「場所」は計13となり、これらが「石狩十三場所」と呼ばれ、その中心施設が石狩川河口付近に設けられた「イシカリ元小屋(もとごや)」(運上屋(うんじょうや))でした。

現在「弁天歴史公園」には、当時の運上屋をモチーフとした公園が整備され、日本で始めて作られた「鮭缶」などが展示されています。
 
この界隈は、石狩灯台やハマナスを鑑賞することができる遊歩道が整備されており、石狩川河口付近の歴史と石狩川が育んできた歴史を学ぶ「フットパス」を楽しむことができます。

「石狩灯台」とハマナスなどの180種に及ぶ海浜植物を鑑賞することができる「はまなすの丘公園」(約46ha)の遊歩道。
石狩市の花でもある「ハマナス」。6月下旬から7月上旬が見頃。
石狩川は河口に向かって次第に川幅を広げ、最大箇所では100mを超える。
「はまなすの丘公園」遊歩道の先には、増毛方面へと連なる山々が見える。ハマナスの開花期には、一面鮮やかに咲き乱れたハマナスに圧倒される。
1858(安政5)年に蝦夷総鎮守(えぞそうちんじゅ)として建立された「石狩八幡神社」。祀神は「誉田別命(ほんだわけのみこと)」。石狩市・八幡町に建立されたが、その後現在地に移転。
1694(元禄7)年に「鮭の豊漁・海上安全」を祈念し建立された「石狩弁天社」。石狩川の主であるチョウザメを神格化した「妙亀法鮫大明神」が祀られている。
戦前、石狩浜の鮭漁業と北洋漁業で活躍したという吉田庄助氏がいたそうだ。氏は、故郷の新潟県・太郎代浜(たろうたいはま)から霊験あらたかということで1935(昭和10)年に太郎代天曝観音(たろうだいあまざらしかんのん)の御分身を石狩に迎えたが、太郎代天曝観音の傍らに三十三体観音があったことから、翌年「西国三十三箇所霊場」を建立したと、記録には書かれている。
「弁天歴史公園」内にある「先人たちの碑」。石狩の歴史を築き上げた先人の苦労を称え、石狩川を中央に、鮭とハマナスがモチーフされたそうだ。
1877(明治10)年、開拓使は国内初となる鮭の缶詰の工場を石狩に設置したが、その当時作られた「鮭缶」のレプリカが、「弁天歴史公園」内の「運上屋棟」に展示されている。

「札幌開祖」の二人。ひっそりと現在もその名を残す。

石狩川の歴史を調べてみると、札幌都心に「札幌開祖」と言われる人々の碑が建立されていることに気が付きます。
 
札幌市は、石狩川の支流である「豊平川(とよひらがわ)」の扇状地上に街が形成されました。太平洋と日本海側とを結ぶ重要な幹線道路として1857(安政4)年に「札幌越新道」が開削されたことにより、札幌の発展の基盤が整いました。しかし、この新道の交通の障害となったのは、現在の水量の5倍から10倍もあったと想像される豊平川であり、橋を架ける技術力や資金がなかった当時、舟の渡し役が必要となりました。

その豊平川の最初の渡し役として、当時石狩に住んでいた志村鐵一(しむら・てついち)が選任され、札幌に定住した最初の人物となりました。
 
その後、「一人じゃ寂しいだろうから、志村の話し相手が必要だったので」とか、種々説は残されているものの、対岸に吉田茂八(よしだ・もはち)が配置され、二人は親交を深めましたが、明治に入り開拓使が置かれて島義勇(しま・よしたけ)が判官(はんがん)として赴任すると、志村は解任され、定山渓(じょうざんけい)で温泉を開いている「僧・定山坊に会いに行く」と言い残して旅立ちましたが、消息は不明となったようです。
 
札幌にとっての「母なる川」である豊平川。

札幌市の繁華街「ススキノ」から一般国道36号を東へと歩いて5分。豊平川に架かる「豊平橋(とよひらばし)」の南東側には志村鐵一、北西側には吉田茂八の碑が建立されていますが、彼らの苦労を知っている札幌人は、今となっては数少ないのではないでしょうか。
 
石狩川の歴史を紐解いていこうとすれば、意外な史実に出くわすこととなり、先人たちの御労苦に対して改めて心からの「感謝」。

まったくの余談ですが、長編小説『石狩川』を著した作家・本庄睦男(ほんじょう・むつお)氏のお孫さんは、私の中学生時代の同級生であり、その兄も私の知人であり、妙な「縁」を感じずにはいられません。

札幌市内を貫流し、石狩川と合流する「豊平川(とよひらがわ)」。川の両岸には、サイクリングロードや野球場、サッカー場などが整備されていて、札幌市民にとっては「憩いの場」であり「母なる川」でもある。
札幌開祖・志村鐵一の碑。「定山渓に行く」と言って札幌を離れた志村。妻子とともに豊平川の東岸に住んだことが記録として残されているが、本人はもちろん、家族はどこで最後の時を迎えたのだろう。
札幌開祖・吉田茂八の碑。吉田はその後、札幌市内を南から北へと通る堀=「創成川(そうせいがわ)」の南3条から南7条までの掘削を請け負い、その区間は「吉田堀」と呼ばれ、札幌人なら誰もが知っている大友亀太郎が掘削した「大友堀」と並び称される活躍の記録が残されている。