from 岐阜 – 5 - 長良川母情 第5話 ~村人たちが架けた名も無き吊橋と共に生きる。白鳥町二日町のきくさん~

(2009.06.23)

山間(やまあい)の春は、川下の町を若葉色に染め上げながら、川上へとゆっくりやって来る。長良川鉄道の白山長滝駅と白鳥高原駅との中間、郡上市白鳥町二日町上切地区には、村人たちが架けた名も無き吊橋がある。俗称「上切橋」。長良川の川幅も悠に50㍍に達し、山々から流れ込む雪解け水の流れは速い。時折り春に睦(むつ)み会う鳥の声だけが、川沿いの森にこだます。覚束(おぼつか)ない足取りで杖を片手に、ゆっくりと一人の老婆がやって来た。徐(おもむろ)に吊橋の袂(たもと)に腰を下ろし、春の陽射しに彩られた里山と長良の川音に耳を澄ましているようだ。

「ごめんね、お母さんびっこで。周りのお母さんたちみたいに、綺麗じゃないし。一緒に歩くの恥ずかしいんだろ?」。40年前、母は不意に涙ぐみ、そうつぶやいて立ち止まった。大粒の雨音に母の言葉が消え入る。改めてそう言われるまで、ぼくは全く気にもしていなかった。そう言えばあの日は何かの式典で、何時に無く母もスカート姿にハイヒールだったからだろうか。コツコツとハイヒールで一定のリズムを刻み、会場へと向かう親子連れが颯爽と行過ぎた。「お母さん子どもの頃、学校の階段から落ちてね。でも戦争中だったから、満足に治療してもらえなくって。こんなみっともないお母さんでごめんね」。帰り道母は、すまなさそうにそう繰り返した。その後ぼくは健気にも、母のびっこを治すため医学を究めたい等と、あらぬ限りの大言壮語を吐き母の嬉し涙を誘ったものだ。だが結果は、しがない文綴りのていたらく振り。重ね重ねの親不孝が、幼き頃の大志と見るも無残に変わり果てた。だから母のびっこは、年を追うごとにその落差を増し、終末は大きく上半身を傾げなければ歩を進めることもままならなかった。

吊橋の袂に佇(たたず)む老婆の姿と、在りし日の母が重なり合う。
齢(よわい)を重ね不自由になった老婆の足腰は、永年の野良仕事と小さな身体で家族を支えぬいた、誰に憚(はばか)る事も無い立派な勲章だ。「ここへ嫁いで来た頃は、二本の丸太が架かっただけの大川じゃった。山の草箱から肥料用に主人と草刈って、それを負(おい)ねて『どっちの足から出そうかしゃん』って、そりゃあ怖かったもんやて。だって大川に架かった丸太の上を、曲芸師みたいに毎日行き来するんじゃで」。郡上市白鳥町二日町上切の尾村きくさん(88)は、森の向こうに遠き日々を透かし見た。きくさんは近在の村で大正8年に誕生。戦火が日毎激しさを増す昭和17年に、尾村家の後妻に入った。

「そしたら翌年主人が召集されてまうし、先妻の二人の子と赤子を抱え、舅姑も一緒に空襲警報が鳴り出すと必死で逃げ惑ったもんじゃて」。終戦後、夫は無事に復員を果たしたが、病を患い6年近くも寝たきりの生活が続いた。「育ち盛りの子を食べさせなかんのに、大工だった主人は病気で仕事も出来んのやで。『貧乏ってつくづくこんなもんやなぁ』って毎日嘆いてばっかりじゃった」。

やがて村人たちの念願であった現在の吊橋「上切橋」が完成。「上切の部落の者らが、『今日はお前んとこやで、明日は家(うち)んとこやな』ってな調子で、冬場は2軒ずつで橋の上に降り積もった雪下ろしをするんじゃて。でもそうまでしても山には、なぁんもええもんなんてないでね。せいぜい蕨(わらび)や薇(ぜんまい)程度やわ。だけどご先祖様が大切にして来られた山やで」。

川面を伝う春風が、木々の小枝ときくさんの白く短い髪を揺らして吹き抜ける。この村に嫁ぎ、はや干支も一巡り。この大地にしっかりと根を張り、今日まで苦楽の日々を暦に刻み続けた。「最近息子らが家を建てて、昔のボロ家から日当たりのええ部屋宛がってまえたんじゃて」。きくさんは水が張られたばかりの田んぼの向こうを、指差しながら微笑んだ。
苦楽を載せた天秤量りは、大きく上下に揺れながらも、やがていつか必ず水平に帰す。両の皿に載るのは苦楽ではなく己が心。苦楽の重さを比べるのは、己が心の匙加減一つ。

*岐阜新聞『悠遊ぎふ』2008年5月号から転載。内容の一部に加筆修正を加えました。

 

追記

「そりゃあもう何度も何度も、新聞に穴が開くほど眺めて、お婆さんは喜んどらしたよ。一生物のええ記念やて」。電話口のお嫁さんがまるでわが事のように、きく母さんの近況を知らせてくれた。それによれば元々ご不自由だった足が快癒することは無いものの、心身ともにいたってお元気なご様子とか。どうかいつまでもお元気で。

 

Googleマップ: 上切橋

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