from 北海道(道央) 番外編 《2013夏イタリア》vol.3 支配と抑圧を、自由へ変える精神。
ナポリ、そしてカプリ島。

(2013.08.08)

あらゆる支配を生き抜いてきた、ナポリの人々。

「ナポリを見てから死ね」と言う言葉は、誰もが知っているだろう。実際にそれほどの価値ある都市なのだろうかと、足を踏み入れる日を楽しみにしていた。

アテネ人によるイタリア西部地域の植民地化は、パルテノペ(Parthenope)と名付けられた都市から始まったとされるが、そのパルテノペを包含する「新しいポリス(ネアポリス)」としてBC6世紀に建設された都市が「ナポリ」だ。

ナポリほど、都市建設が始まって以降、多くの国家・民族による支配を入れ替わりに受けた都市はないのではないだろうかと思うほど、この都市の年表には厚みがある。

また、ナポリの南東にあり、18世紀になってその発掘が進められて存在が確認された「ポンペイ」の悲劇は、繰り返し自然災害を受けてきた日本国民にとっても、他人事ではないだろう。小プリニウスが歴史家タキトゥスに宛てた手紙には、79年8月24日にヴェスヴィオ火山が大噴火し、翌日火砕流が発生し、街は一瞬にして完全に地中に埋まり、さらには大津波が襲来し、火砕流から逃れた人々をも容赦なく襲ったのだろうと推測できる。

18世紀以降発掘されたモノの中には、ワインを入れるために使われていたと思われる多くのアンフォラが存在し、ポンペイ周辺ではワイン用葡萄の栽培も盛んだったことも分かっている。

アンジュー家によって13世紀に建造され、15世紀に入ってアラゴン家によって再建された「ヌォーヴォ城」。ナポリ支配の変遷を象徴するかのよう。
西暦79年8月、突然大噴火しポンペイを死の灰で覆い尽くした「ヴェスヴィオ火山」。現在は、不気味な沈黙を保っている。
ナポリらしい自由と、イタリア統一への貢献。

ナポリの街中をぶらりと歩いてみると、カミッロ・カヴール(1810-1861)、ジュゼッペ・ガリバルディ(1807-1882)とともに「イタリア統一の三傑」と言われるジュゼッペ・マッツィーニ(Giuseppe Mazzini。1805-1872)の像が、なぜか街中に建っているのを発見し驚いた。

マルセイユにて「青年イタリア」を結成した事実が、マッツィーニの経歴では有名だ。1806年頃に、ここナポリで結成された秘密組織「カルボナリ(Carbonari)」に、マッツィーニは「青年イタリア」を結成する前に所属していたようであり、彼の像がナポリに建立されたのだろう。

それは、様々な国々、民族の支配を受けていたが、「イタリア統一」においては重要な役割をナポリも担っていたということを、地域の人たちが自負している一面だと、受け止めた。

恐らくそこには、塩野七生氏がルネサンス初期において貢献した一人として名前を挙げる「フェデリコⅡ世」が、法王庁の影響下にあるボローニャ大学に対抗する学府として設立したと言われる「ナポリ大学=フェデリコⅡ世大学」の自由な学風も、少なからず影響したのではなかろうかと思いを馳せる。

それにしてもナポリの街は、車のクラクションで騒々しい。船乗りや港湾関係者が多いせいなのか、大声が響き渡り、賑やかで活気がある。そのことを感じるだけでも、ナポリは見ておいて損のない街なのではなかろうか。


左:ナポリの街を歩いていると、果物や野菜を売っている露店が立ち並ぶ。地元の人たちの雑談で、賑やかなお店も多かった。
右:ミラノのヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガッレリアに遅れること10年、1890年にナポリに造られた「ウンボルトⅠ世のガッレリア」。

左:王宮の前にある「トリエスッテ・エ・トレント広場」。
右:まさに偶然出会った「ジュゼッペ・マッツィーニ」の像。地図にも掲載されていなかったので、個人的に強く感動した。
映画『イル・ポスティーノ』の世界とは。

日本では1996年に公開された映画『イル・ポスティーノ』は、ご覧になられた方も多いかと思う。

中南米出身の作家の中では、個人的にはG・ガルシア=マルケスが好きなのだが、マルケスが「どの言語の中でも20世紀の最高の詩人」と称し、1971年にノーベル文学賞を受賞したチリの詩人パブロ・ネルーダ(1904-1973)。

彼がチリ共産党に入党したことにより亡命せざるを得なくなり、亡命期間中に身を寄せたイタリアの島が、カプリ島である。そのカプリ島での出来事を映画化した映画が『イル・ポスティーノ』。映画の撮影された場所はカプリ島ではなくとも、詩人ネルーダが実際にこの島でどのような暮らしを送ったのか、感じてみたいとも常々思っていた。

喧噪のナポリ・ベヴェレッロ埠頭から水中翼船に乗り約40分。カプリ島のマリーナ・グランデに到着する。折角カプリ島を訪れるとすれば、やはり「青の洞窟(Grotta Azzurra)」にも足を運んでみたい。

古くはローマ帝国の皇帝の個人的な浴場として使われていたとか、デンマークで生まれたハンス・クリスチャン・アンデルセン(Hans Christian Andersen。1805-1875)が、20歳目前でヨーロッパを旅行し、書き上げた最初の小説『即興詩人』に取り上げられ、広くヨーロッパ全体にその素晴らしさが伝わったなど、カプリ島の「青の洞窟」にはストーリーがある。


左:青い海と空の色合いには、やはり白がお似合い。カプリ島の街中を歩いていると、イタリア本土とは異なる解放感を覚える。
右:カプリ島で、偶然新婚さんが写真撮影をしている場面に出くわす。二人の想い出の詰まった場所を訪ね歩き、記念に残すのだという。

左:カプリ島で食べた「ボンゴレ・ビアンコ」。アサリ(ボンゴレ)の美味しさはもちろんのこと、味付けが絶妙。暑さもあって、泡や白よりも、ビールの消費が進んだ。
右:地中海で捕れたばかりの白身魚を、ソテーでいただいた。出来るならば、この島で生涯暮らしたいと思わせてくれる一皿であった。
抑圧による亡命よりも、永住したい、カプリ島。

だが、実際のところ、この「青の洞窟」に入ることができるのは、本当に波が穏やかなときに限られることから、入ることができるためには余程の「幸運」が必要なのだ。

陸路で行くことも可能だが、マリーナ・グランデから30人程度が乗船できるモーターボートに乗り換え30分、その後、4人乗りの手漕ぎボートに乗り換えて洞窟へと入っていく。

手漕ぎボートに乗ったなら、頭の天辺まで船の中に沈め、船頭が洞窟の内外を繋いでいるチェーンを手繰って入っていくという、まさに壮絶なチャレンジによって「見たことのないような神秘的な青の世界」を体験することができる。

たまたまご一緒したモーターボートのお客様のうち数人は、地中海に降り注ぐ強烈な太陽光線と船の揺れ、さらには長い洞窟への待ち時間の間に、体調を崩されたりしていたようなので、「青の洞窟」を体験するためには「幸運」の他にも、気力と体力とが必要なのでお忘れなく。

さて、実際に島の方々と話をしてみると、日本人客が多いこともあってか、とてもフレンドリー。レストランのオーナーに「あなた、メタボね」と言われてからかわれてみたり、冗談を言い合える南国特有の明るさがあり、亡命と言ってもこの島なら「天国」だったのではなかろうかと、詩人ネルーダを一瞬羨んでしまったりする。カプリ島で食べた海産物は実に美味しく、狭い道路を猛スピードで走り抜ける車に慣れることができるのなら、永住したいと思わせてくれる素晴らしい環境に恵まれたカプリ島であった。


左:青の洞窟へと案内してくれる「手漕ぎボート」は、需要が減少したり、休憩を取るときには、モーターボートに引っ張ってもらいマリーナ・グランデへと帰還する
右:「青の洞窟」。この神秘的な青い色は、アマルフィ海岸の「エメラルドの洞窟」とは、一味違う神々しささえ感じられる。

左:日本でも名前が知れ渡りつつある「カプリウォッチ」の本店。お父さんとその息子の双子の兄弟が中心となり、店を営んでいるとのこと。
右:値段もさほど高くないので、お土産で購入する人たちが多かった「カプリウォッチ」。