from 岐阜 – 17 - 長良川母情 第17話 ~昭和のコンビニは何でもアリの萬屋(よろずや)~

(2009.09.15)

いつからだろう。線香花火の火玉が、足元へポトリと落ちても、哀しくなくなってしまったのは? 子どもの頃は、それが途方も無く哀しい出来事だったのに。地面に落ちて歪んだ火玉。息絶え絶えにピシピシッと小さな火花を散らし、やがて静かな闇へと消え入った。あの儚さは、飼い犬の今際(いまわ)の際と同じ。幼心が今にも張り裂けそうにキュンと鳴った。

ぼくが子どもの頃は、駄菓子屋の店先でもバラ売り花火が手に入った。だからお盆になると、大枚100円も与えられ一目散で駄菓子屋へ。すると小さな店内は、どこの家庭も同じ考えのようで、花火目当ての子どもで超満員。普段持ち慣れぬ100円なんて大金は、いつもと勝手が違い、花火の品定めと計算に頭が痛む。まるで当時の人気番組「がっちり買いましょう」の出場者のようだ。だから店先を潜る瞬間には、夢路いとし・喜味こいし師匠の名台詞「男は度胸、女は勘定。お手手出しても足出すな。がっちり買いまショウ!」のタイトルコールが、脳裏を駆け巡ったものだ。誰もがどこかの役所のように、予算枠一杯を使い切ろうとやっきで、算数の授業とは大違い。両の指を使い白熱の品定めが続く。

「おばちゃん、これでいくら?」「では、伺ってみましょう。100円コース!いかがでしょうか? ブッブー。残念でした。あんた115円だでオーバーだわ」。駄菓子屋のオバちゃんも心得たもので、テレビの台詞で応じる。テレビの場合100円よりオーバーしなければ、全商品がただでもらえるのに、駄菓子屋のオバちゃんにそれは通用しない。まあ、商売だから当たり前だが。でもひょうきんなオバちゃんは、けっこうその真似がお気に入りだった。昭和半ばのあの頃は、子どもと同じ目線で楽しむことの出来た大人が結構いたものだ。

「私が嫁に来たのが昭和44年。それから10年くらいは、夏場に花火も売っとったわねぇ」。忠節橋を北へ300mほど進んだ左手、岐阜市早田大通りの『則金ストアー』、三代目女将の高橋とし子さん(61)は、レジの前にデーンと腰掛ける夫の義裕さん(65)に問うた。「おう、そうやそうや。でも今はあかん。子どもらもおらんで」。祖父が引き売りから始め、戦後に店を構えたという則金ストアーは、まるで小さなスーパーマーケットだ。色とりどりの花を付けた鉢植えから、生鮮食品に乾物、おまけに日用雑貨まで。「昔は田んぼばっかやったのに、いつの間にかどんどん家が建って。そりゃあ子どもも一杯で賑やかやったよ」。とし子さんは懐かしげに表通りを見やった。「もうじき梅雨が明けたら花火大会やね。私らも子どもの手を引いて、橋の上から眺めたもんやよ」。過ぎた日の夏の思い出は、儚く夜空に消える花火のよう。過ぎた日が恋しくなったら、そっと目を瞑(つむ)ればいい。いつでも網膜のスクリーンは、色鮮やかにあの夏の日を映し出してくれるはず。

岐阜新聞花火大会まで後3週間。今年も長良の暑い夏の夜を、素敵に彩ることだろう。

*岐阜新聞「悠遊ぎふ」2009年7月号から転載。内容の一部に加筆修正を加えました。

 

<追記>

岐阜新聞の全国花火大会は、当初8月1日の予定が雨天で順延され、8月16日に長良川河畔で夏の夜を焦がすように、数え切れないほどの花火が打ち上げられた。「今年も河原まで見には行けんかったけど、ドーンドーンと打ち上げられる音だけ聞かせてまったわ。ちょうど送り火の日やったで、さぞかしご先祖様も喜ばれたんやろね」と、とし子母さん。客の対応に追われながらも、電話口でそう楽しげに応えてくれた。

 

Googleマップ: 17 岐阜市早田大通り 則金ストアー

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*地図のポイントは、「岐阜市早田大通り2-9」で検索した場所です。