from 北海道(道央) – 11 - 北海道の炭鉱遺産《空地編》。

(2009.10.08)

「幼少期」の想い出。

赤平駅へとつながる空知川にかかる橋の上から。

北海道から初めての東京勤務となったときのこと。

通勤に片道なんと2時間超もかかるという、神奈川にある職員宿舎に入居させていただいたのですが、まずもって家中どこを探しても「煙突の穴」が見当たらないことに気が付き、とても驚きました。

なぜかと言えば、その頃北海道では(今でも北海道の多くの家庭ではそうでしょうが)灯油式のストーブがなければ冬を過ごせない状況にあり、灯油式ストーブは換気しながら使用する小型のものではなく、煙突で換気し、しかも家の中に灯油タンクを付置する大型のものなのです。

なぜそのようなことを書いているのかと言えば、自分の年齢の北海道人にとってみれば、幼少期には数ヶ月に一度でも煙突掃除を欠かせない環境にあったという「記憶」の一端をお伝えしたかったのです。

灯油式ストーブになれば、煙突掃除もほとんど必要なくなったのですが、幼少期には春・夏は「薪(まき)ストーブ」、秋・冬は「石炭ストーブ」が当たり前で、各戸では煙突掃除が欠かせない作業だったのです。今となっては想い出ですが、祖父が屋根に登って煙突掃除を始めると、顔中真っ黒になりながら働く姿が瞼の底に記憶として残っています。

悪いことをすれば、「石炭小屋」に閉じ込められ、反省するまでそこから出してもらえなかったな~~(涙)。

戦後日本のエネルギー政策の変化

以前、「北海道の近代史は、工業化を推し進めようとする明治政府の方針により、空知(そらち)地方で採炭された「石炭」を、いかに効率的に本州へと運び出すかという命題の解決にあった」と書きましたが(⇒ /travel/13075/)、昭和40年代前半までに北海道に産まれ育った者にとってみれば、石炭はとても身近な存在だったのです。

明治初期の北海道開拓は「エネルギー探査」に比重を置かれ、アメリカから多くの技師たちが招かれて、地質探査が行われて、その結果に基づき「炭鉱」開発が進められました。第2次世界大戦後、エネルギー需要は次第に「石炭」から「石油」へとシフトしていきましたが、その結果として、明治期後半に開発が始められた多くの北海道の炭鉱は、次第に人口を減らしてゆくことになり、それに伴い鉄路も合理化され、今日空知の「夕張」が北海道の辛酸の象徴のように語られるような事態を生ずることになっていったのです。

赤平市の中央を流れる空知川。

 

「赤平(あかびら)」と言えば……。

空知地方には、このような北海道の近代史の象徴でもある「炭鉱遺産」が各地に点在しています。先日、機会があって「旧 住友石炭赤平炭鉱」跡地にお邪魔することになりました。

空知地方の北東に位置する「赤平(あかびら)市」。帯広にある母親の実家に向かう鉄道の通過駅でもあり、赤平という地名を「あかへい」と勘違いし続けていたことも、懐かしい想い出です。今は、市とJRとが駅を合築する形で、とても立派な駅となっていて、駅を降りると直ぐに「塊炭飴(かいたんあめ)」の看板を発見することができます。

この「塊炭飴」こそが、昔懐かしの味なのです。石炭の塊のような形状をした飴。子供の頃には長方形の箱に入り、小さなハンマーのようなものが一緒に箱に入っていて、そのハンマーを用いて飴を食べ易い大きさに砕いて食べた記憶が残っています。

独特の「ニッキ=シナモン」の香りは、子供にとっては異様に感じられたのですが、食べてみると病みつきになってしまう、「不思議な飴」なのです。今も赤平の特産品として販売されていますので、是非皆さん一度召し上がってみてはいかがでしょうか?

住友石炭赤平炭鉱

赤平駅。
赤平駅を出るとすぐに目に入る「塊炭飴」の看板。

空知の「炭鉱(やま)の記憶」。

さて、いつものように話が脱線してしまいましたが、「炭鉱遺産」をどのように残していくのかということについては課題が多過ぎるのです。

もともとドイツのノルトライン・ヴェストファーレン州で行われていた「エムシャーパークプロジェクト」という取組みがありました。

ドイツの石炭地帯と言えば「ルール工業地帯」と皆さんのどこかにも記憶が残っているかと思いますが、そのルール工業地帯は鉄鋼業、採炭業の街でしたが、それらの産業の斜陽に伴い地域のスラム化が深刻化し、その再生のために30億マルクもの予算をEU、ドイツ、州予算から投じて鉄鋼業からデザインの街へという変容を遂げることに成功したのです。(参考文献:『ボーダレス時代のフロンティア精神 国境なき時代に挑戦する開拓者達』 渡部成人氏編著)

この手法を参考として「炭鉱遺産」の伝承・活用・保全ができないかという検討を、北海道でもNPO法人などが行ってきているのですが、空知支庁が「炭鉱(やま)の記憶」をプロジェクトとして動きを支援し、今年8月に「そらち炭鉱(やま)の記憶マネジメントセンター」を岩見沢市にオープンさせたのです。

来たる10月17日(土)午後には岩見沢市で、東京大学の西村幸夫教授たちをお招きして「近代化産業遺産を生かした観光まちづくり」と題したセミナーが開催されるそうです。

北海道の石炭の歴史は、独り空知だけのものではなく、採炭した石炭を小樽港から本州方面へと船で運び出す作業が必要であり、そのために鉄路が敷かれたりしている史実を考えれば、小樽から産炭地である空知までを含めた「広域的・複眼的」な視点でモノを考えるということ、加えてそこで実際に働かれていた多くの皆さん、そしてそこに住まれていた皆さん方の生活の息遣いを拾い集めるという作業が必要ではないのかと、自分自身は考えています。

写真によるご紹介が主体となってしまいますが、空知の炭鉱遺産をご紹介させていただきました。なお、「住友赤平炭鉱」に現存する施設のほとんどは、老朽化が進んでいて一般の皆さまの見学は危険であること、また、見学に耐え得る状況にするための維持経費が多大であることなどから、既に今年の夏をもって一般見学はできないという現状もお伝えしておきます。

NPO法人炭鉱の記憶推進事業団

旧住友石炭赤平炭鉱施設の外観。
映画『インディアナ・ジョーンズ』で見るようなトロッコ。
巨大なエレベーターは、地下深くの炭鉱への人の行き来、また採掘された石炭を運び出す。
石炭掘削ドリル。
この枠ごと移動しながら掘削する「自走枠」。
現在も入館可能な「赤平市炭鉱歴史資料館」。
当時の「炭鉱住宅」が再現されている。
炭鉱には必要だった「爆薬」などが展示されている。
事前工事決裁資料などが、資料の中には眠っている。
坑道入口の模擬展示。
膨大な資料が手付かずに眠っている。これらの資料をどう保存し、活用できるのか、知恵が必要。