from 北海道(道央) – 15 - 日本で唯一の「ビール博物館」。

(2009.11.24)
1890(明治23)年に建てられた「サッポロビール博物館」を含む「札幌苗穂地区の工場・記念館群」は、「北海道遺産」に選定されています。(写真:サッポロビール提供)

「サッポロビール博物館」。

「サッポロビール博物館って、札幌にあるの?」。先日、後輩から聞いてびっくり!!
「嘘でしょ!」。札幌に住んでいても、意外とその存在を知らない方がいることを知りました。
道外から札幌に観光でいらっしゃる皆さんの多くは、「サッポロビール園」へと足を運ばれ、ジンギスカンと大きなジョッキーで浴びるほどの生ビールを楽しまれた記憶があるでしょう。そのサッポロビール園の横に、日本で唯一のビールに関する博物館である「サッポロビール博物館」は存在します。

余談ですが、学生時代の多くの期間を札幌市・東区で過ごしましたが、「サッポロビール園から水道管のような施設を埋設し、自宅でどうにかして生ビールを飲むことはできないものだろうか」と、真剣に考えていたことが懐かしく感じられます。それほど自分にとっては、身近な施設だったのです。

サッポロビール構内にある「札幌神社」。1966(昭和41)年の新工場竣工を期に、北海道神宮の御分霊をお祭りしたことに由来しています。
「サッポロビール博物館」のモダンな看板。
博物館の入口はこちらです。入場は無料。施設内で、ビール等の有料試飲を行っています。

 
日本人初のビール醸造人・中川清兵衛。

少々長くなりますが、「サッポロビール」について少し歴史を遡ってみたいと思いますので、お付き合いいただければ幸いです。

1885(明治18)年からの2年間で、国産ビール製造量は実に約8倍にまで伸びたという記録が残されていることから考えても、明治に入って急激に国内におけるビールに対する関心と需要が増していったことが想像できます。「苦い」と感じたのか、「斬新」と感じたのか、当時の皆さんはどう感じたのでしょう。
 
日本人初のビール醸造人は新潟県・長岡市(NHK大河ドラマ『天地人』でも脚光を浴びた与板)に生まれた中川清兵衛(なかがわ・せいべえ。1848-1916)。1865(慶応元)年に、幕府の禁を犯してイギリスへと渡航。その後、アメリカ、フランスでの生活を経て、1872(明治5)年、後の外務大臣になる青木周蔵(あおき・しゅうぞう。1844-1914)とドイツで出会い、ベルリン郊外のヒュルステンバルデ(Furstenwalde)にあるベルリンビール醸造会社のティヴォリ麦酒醸造所(Tivoli-Brauerei)にて醸造技術を2年2か月間学び、1875(明治8)年に帰国し、翌1876(明治9)年に創業開始となった「開拓使麦酒醸造所」にて日本人初の麦酒醸造技師となり、その際ドイツから授与された「修業証書」はサッポロビール博物館に保存されています。

この「開拓使麦酒醸造所」こそ、現在の「サッポロビール(株)」の前身なのです。ビール醸造を市場に近い東京で行うべきか、それとも野生のホップが存在していることが発見された北海道・札幌とすべきか議論があったようです。

日本に戻った中川清兵衛は、ドイツで学んだ麦汁を摂氏10℃以下に冷やして発酵させる「下面発酵(低温発酵)技術」を用いるため、氷を容易に入手可能な冷涼な気候である北海道こそが官営の「開拓使麦酒醸造所」の設置場所として相応しいことを力説し、事業責任者であった村橋久成(むらはし・ひさなり)の強い主張によって「サッポロビール」の礎が札幌の地に築かれることになりました。
 
「(ビール大麦)生産者と醸造者が一丸となって、ともにビールづくりを進めていく。それが美味しいビールのためには絶対に欠かせない」という、現在もサッポロビール(株)に受け継がれている創業の信念とこだわりへとつながっているのです。

1900年代のはじめ、ビール瓶は「王冠」ではなく「コルク」栓だったのですね。
陶器からガラスのコップへの変遷、またカランなどが陳列されています。
缶の変遷も、時代の変化を感じることができます。
1887(明治20)年、日本麦酒醸造会社が設立され、1890(明治23)年に同社から発売された「恵比寿ビール」。その後、サッポロビールへと。その誕生と復刻の歴史は、東京・恵比寿にて学びましょう。
2階展示室に展示されている「アドコレクション」。時代とビールの関わりについて、ポスター広告の変遷を通して紹介されています。(写真:サッポロビール提供)
サッポロビール札幌工場で実際に使用されていた煮沸釜(ウォルトパン)。ビール独特の苦味と香りがこの工程を通してつけられます。大きさに圧倒されます。(写真:サッポロビール提供)

 
開拓使の廃止。民間払下げで大倉喜八郎が・・・。

1882(明治15)年に開拓使が廃止され、1886(明治19)年に「開拓使麦酒醸造所」は民間払下げされることとなり、以前「樺戸集治監」を紹介した際に登場した大倉喜八郎が引き受け、「大倉組札幌麦酒醸造場」として民間企業としてのスタートを切ったのです。

翌1887(明治20)年には、明治を代表する実業家である渋沢栄一と浅野総一郎が共同経営者として経営に参画し、「札幌麦酒会社」が設立されることになりました。

こうした動きの中で、中川清兵衛は、1891(明治24)年、なぜか麦酒醸造の世界を追われ、家族で小樽に移住し「中川旅館」を開業。海上交通が不便な利尻島の鴛泊(おしどまり)港の整備に私財を融通するなど、個人の立場として北海道近代史に大きな足跡を残しています。

北海道ではなく、彼が生誕した長岡市で毎年7月に地域住民手作りの「中川清兵衛ビールフェスタ」が開催されているという事実に向き合うと、北海道のために尽力された偉大な先人に対し、北海道在住の一人の人間として、何とも言葉を失ってしまいます。
 
大倉財閥と樺戸集治監

官営事業から民間企業(大倉組札幌麦酒醸造場)への変遷について、パネルにて紹介。
博物館最上階である3階展示室。サッポロビールの発祥の地に相応しい誕生と発展のドラマがダイナミックに紹介されています。(写真:サッポロビール提供)
1886(明治19)年の大倉組への払下げと同時に、北海道庁が大倉組に発行した豊平川(とよひらがわ)の天然氷採取許可書。

築120年の建築物に「魂」が宿る。

さて、現在の「サッポロビール博物館」の建物は、実は1890(明治23)年に「札幌製糖会社工場」としてドイツのサンガーハウゼン社(Sangerhausen)の基本設計によって札幌市・白石(しろいし)産のレンガによって造られたと推定されています。ちなみに、現在「煉瓦(セラミック)」は、札幌市の隣町である江別市の主要産品となっています。

その後、札幌麦酒会社は当時のビール需要の飛躍的増加に対応するため、1903(明治36)年、事業解散に追い込まれた札幌製糖会社から工場を買い取り、主力製麦工場としての創業を開始したのです。

さらに昭和40年代のビール需要のさらなる増加に対応するため、工場隣接地に新工場を設置することとなり、「小樽運河保存運動」を思い起こしますが、取り壊しの議論があった中、1966(昭和41)年に「ビール資料館」として、そして1987(昭和62)年に「サッポロビール博物館」として新装開館し、年間15万人以上、総数で400万人もの皆さんを迎え入れているのです。

国内ではあまり知られていないようですが、2008(平成20)年5月、「サッポロビールは、生産・販売者との緊密な関係を通じ、高品質な麦芽・ホップを栽培し、食の安全・安心を追及している独自の取組み「協働契約栽培」が高く評価され、「ドイツ連邦栄誉賞金賞(Bundesehrenpreis in Gold)」」を、ドイツ国外のビール醸造メーカーとして、また、日本企業としても初受賞するという快挙を成し遂げたのです。

脈々と営まれてきた明治初期からの創業の信念とこだわりが、ビールの本場において認められた「証」とも言えるのではないでしょうか。
 
来年は、建物が誕生してからちょうど120年の節目の年を迎えることになります。札幌にお立ち寄りの際は、また、サッポロビール園に立ち寄る際には多少時間に余裕を持って、是非とも「サッポロビール博物館」へと足をお運びくださいませ!! 

北側入場門から入ってみると、煉瓦作りの建物に「明治」を感じることができるはず!
「サッポロビール園」にてジンギスカン鍋。ビール園に立ち寄る前の1時間程度、隣接する「サッポロビール博物館」にて歴史を学んでみてはいかがでしょうか?
ジンギスカンの食べ放題とビールの飲み放題を組み合わせたコースなど、バリエーション豊富ですので、お腹の状態に合わせてセレクトできます。観光シーズンには、事前予約がお勧めです。

 
【謝 辞】

本稿作成に当たっては、高校の同級生でもあるサッポロビール(株)北海道営業本部・井上求(いのうえ・もとむ)道央支社長さま、また、サッポロビール博物館・日向寺英一(ひゅうがじ・えいいち)館長さま、市川津久美(いちかわ・つぐみ)さまから参考文献及び写真の提供(キャプションに明示)をお受けいたしましたことを、心からお礼申し上げます。

また、日本国在デュッセルドルフ領事館・副領事として活躍され、今年から札幌勤務となった渡部成人(わたなべ・まさと)氏が取りまとめられた資料から、数多くの情報を与えていただきましたことに対し、併せてお礼申し上げます。
 
『ボーダレス時代のフロンティア精神』(渡部成人・著)