from 北海道(道央) 番外編 《2013夏イタリア》vol.6 イタリア統一への軌跡。
芸術の街、ミラノにて。

(2013.08.30)

ラッザロ・パラッツィ通り。夜であっても絵になる通り。

ルネサンス後のイタリア。

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団による「ニューイヤーコンサート」と言えば、「ラデツキー行進曲」が定番であり、幼少の頃から聴き慣れた曲の一つであった。

ルネサンス後のイタリアは、そもそもバラバラの国であった各地域にフランスやスペインの支配を受けることになる。1805年、ナポレオンによる統一を一度は体験する。ナポレオン没落後、1814年から2年にわたり開かれたウィーン会議に基づく「ウィーン体制」へとヨーロッパ全体が移行することとなり、ミラノを含む北イタリアはオーストリア帝国による支配を受けるなど、再度、各地域に分割されていくことになる。

ウィーン体制は、大国・列強によるヨーロッパの安定を目指したものであり、自由主義・国民主義運動の抑圧が首をもたげるが、「1848年革命」と言われるフランスから始まった革命の火は、ドイツ、オーストリア、イギリス、イタリアなどヨーロッパ全体へと波及していくこととなる。その様相は、さながら「アラブの春」を見ているかのようにさえ感じる。

革命が飛び火した北イタリアにおける独立運動は、ダニエーレ・マニン(Daniele Manin。1804-1857年)が中心となり、オーストリア帝国と戦うことになるのだが、ヨーゼフ・ラデツキー将軍率いるオーストリア軍に敢え無く鎮圧されたのだ。

「ミラノのドゥオーモ」。約430年かけて完成した、ゴシック建築の最高傑作。
約430年かけて完成した「ミラノのドゥオーモ」。
ドゥオーモの内部。ステンドグラスも美しい。
ドゥオーモの内部。ステンドグラスも美しい。
ミラノにおけるルネサンスの痕跡。

そのラデツキー将軍を称える行進曲として、「ワルツの父」と称されるヨハン・シュトラウス1世(Johann Strauß I。1804-1849年)によって1848年に創られたわけで、毎新年にこの曲を北イタリアの人たちはどのような心情で聴いているのだろう。

ミラノの元々の住人は紀元前600年のケルト人だが、紀元前222年にローマによる征服後に繁栄。その後、他のイタリア諸国同様、周辺国による支配と独立とを繰り返し、1277年のヴィスコンティ家、1450年のスフォルツァ家による支配の間に、ルネサンスを迎えることとなる。

ヴィスコンティ家の支配の時代、1386年に大司教アントーニオ・ダ・サルッツォとミラノ領主であったジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの指示により、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂のあった場所に「ミラノのドゥオーモ」の最初の石は置かれた。 それから427年経過後の1813年、フランス発祥のゴシック建築の最高傑作と称されるドゥオーモは完成した。

さらに、レオナルド・ダ・ヴィンチが建築に加わり、1466年に完成した「スフォルツァ城」など、ミラノにおけるルネサンスの名残は各所で確認することができる。

ミラノ公国の面影をそのまま残す「スフォルツァ城」の正門。
ミラノ公国の面影をそのまま残す「スフォルツァ城」の正門。
スフォルツァ城は四隅に塔が配置され、往時の戦いを想像させる。
スフォルツァ城は四隅に塔が配置され、往時の戦いを想像させる。
芸術の街。オペラから漫画まで。

1778年に建築されたオペラの殿堂「スカラ座」。ダ・ヴィンチの像の正面に位置し、オーストリアに支配されていた当時のミラノ市民にとっての社交場であり、今日でも世界各国から舞台を観るために年数回も足を運ぶというオペラフアンを魅了する場所でもある。

また、ナポリでご紹介した「ウンボルト1世のガッレリア」よりも10年早い、1877年に完成した「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガッレリア」。その名前の由来は、1861年2月18日に開かれた「第1回イタリア国民議会」において「イタリア王」への即位を承認されたその人の名前に因むものであることは、言うまでもない。

今日のミラノは、ローマに次ぐイタリア第2の都市と言われるが、「芸術の街」と称されるだけあり、昼も夜も街全体が古さの中にも美的センスを感じられる街である。

ちょうどミラノに足を運んだときには、「Mirano Manga Festival 2013」が開催されていて、街中に貼られていたポスターが印象に残っている。

国際社会において日本についての理解を深めてもらうためには、日本の漫画が果たす役割は大きなものがあると自分は思っているので、このような機会は積極的に増やすべきではないだろうか。

オペラの殿堂「スカラ座」。いつの日にか、ここでオペラを観てみたい。ヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガッレリア。ドゥオーモ方面へと歩く。
左:オペラの殿堂「スカラ座」。
右:ヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガッレリア。
ヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガッレリア。入口の門を眺めていると、重厚な造りであることを理解できる。ヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガッレリアにある「牡牛のモザイク」。踵を入れて回転し、幸運を祈る人が順番待ちをしていた。
左:ヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガッレリア入口。
右:ガッレリアにある「牡牛のモザイク」。
豊かな恵みはポー川から。

フィレンツェには「アルノ川」が流れていた。ミラノが位置するロンバルディア地方には、イタリア最長の河川である「ポー川」が流れている。

主にアルプス山脈を源流として、ロンバルディア平原、ポー平原を流れ、総延長650kmを超す河川は、ヴェネツィアの南で湿地帯を形成し、アドリア海へと流れ込むことになる。

アルノ川同様、ポー川も沿川を豊かな土壌にしてくれている。ちなみに、北海道にも、道東の標津町に「ポー川」というとても小さな川があるので、覚えていただければ幸いである。

ロンバルディア地方では、「カルナローリ種」と呼ばれるリゾットに最適と言われる米の稲作が行われ、牛や豚などの畜産業が集約化されている。牛乳、バター、チーズはもちろん、上質なサラミやソーセージなどが提供されている。小麦同様、米も用途別に種類は異なるが、ジャポニカ米やインディカ米とは異なるリゾット最適米として、カルナローリ種は輸出されている。

ワインは、ピノ・ビアンコ、シャルドネ、ピノ・ネーロ種を主体としたスプマンテである「フランチャコルタ(Franciacorta)」が何より有名。今回お邪魔する時間がなかった西隣のピエモンテの「バローロ」が、日本では信じられない安値で購入することができたのはラッキー。

食といいワインといい、人間が豊かに生活していくために必要な物資が備わったこの地域は、必然的に外敵との脅威と向き合わなければならない運命にあったのだろう。

それら全てを受け止め芸術へと昇華していくミラノ人の姿勢には、ある種の潔さを感じた。

早朝のミラノの街角を歩いてみると、様々な発見が待っている。ミラノ市内を走るトラム。厄介ものにされがちな電線もまた、芸術的に見えるところが不思議。
左:早朝のミラノの街角
右:ミラノ市内にはトラムが走っている
路面電車の駅も、センスを感じることができる。ちょうどミラノで開催されていた「Mirano Manga Festival 2013」のポスター。
左:路面電車の駅も、センスを感じることができる。
右:Mirano Manga Festival 2013のポスター
郊外にある「聖フランチェスコ・ロマーナ教会」のドゥオーモ。ガイドブックに掲載されていない立派な建物が市内に点在。ミラノの夜の街並みは、ホテルのネオンさえも絵になっている。
左:聖フランチェスコ・ロマーナ教会のドゥオーモ
右:夜の街並みは、ホテルのネオンさえも絵になっている。
牛肉の赤ワイン煮とマッシュポテト。牛肉とマッシュポテト双方の柔らかさが、料理に手間をかけていることを感じさせる。ワイン好きな方なら値段を見てビックリされると思うが「9.99ユーロ」。実に嬉しく、しかも美味しい「バローロ」だった。
左:牛肉の赤ワイン煮とマッシュポテト
右:バローロが9.99ユーロ!?