from 岐阜 – 1 - 長良川母情 第1話 〜 昭和30年代終盤の母の残像 〜

(2009.05.26)

三和土(たたき)でけたたましい音を上げる、母の下駄の音にぼくの初夢はついえた。せっかくあと一息で、あこがれだった「お子様ランチ」のエビフライに、噛り付けたというのに。デパートのショーウィンドー越しに、母の目を盗んでこっそり眺めるだけで、未知の味を創造し口中に唾があふれ出すほどに馨(かぐわ)しかった「お子様ランチ」。楕円状になった銀のトレーの上に、こんもり丸く盛り上がったご飯。その頂に翻る爪楊枝の日の丸は、机の引き出しの中で宝物の一つとなるはずだったのに。

母の下駄の音は、テレビドラマが佳境に至る寸前、決まって突如割って入る無粋なCMそのもの。情緒もへったくれもなく、超現実の現(うつつ)へと連れ戻されてしまった。あまりの口惜しさにたまらず、布団の中の身体も震え出したようだ。「正月だと思って、いつまでいい気になって寝とるつもりやぁ!」。元日から母のおぞましい怒りの声が間近に迫る。と同時に、既に掛け布団は引っぺがされていた。「雑煮が伸びてまうで、早よせんと知らんでねっ!」。寝ぼけ眼をうっすら開けば、オタマ片手に母が仁王立ち。一張羅の着物の上に、すっかり黄ばんだ割烹着。年末に美容院でアップに結った髪を、日本手ぬぐいのほっかぶりで覆い、こめかみには四角く切った小さなトクホンが。今思えばその何とも不思議な出で立ちが、ぼくにとって紛れもない昭和30年代終盤の母の残像だ。

イラスト/茶畑 和也

母がこの世を去ってはや15年。既にぼく自身、とうに当時の母の齢(よわい)を超えた。だからなのか、無性にあのころの正月が懐かしい。折り畳み式の小さな円卓に並ぶ、山盛りのおせち。今風の見てくれの良さなどみじんも無い。煮物に金時、田作りと昆布にかまぼこ、焦げ色の付いたちょっといびつなだし巻き卵とくず数の子。大人になるまでぼくは、数の子の本当の姿を知らずにいた。だから大人になってすし屋で一腹もんの数の子を見た時、「それは同じカズノコと言う名の別の食べ物だ」と自信満々に言い放ってしまい、周りの同僚たちがたまらず腹を抱え笑い転げたものだ。だがやっぱりぼくにとっての数の子は、あのくず数の子でなければならないのだ。

母は貧乏な家計をやりくりし、そこそこに折り合いを付けながら、精いっぱいの思いを込め正月を迎えさせようとしたのだろう。新年を寿(ことほ)ぐため最低限のおせちを整え、ぼくが箸を付ける度に古人の言い伝えを語った母。自分のことはいつでも何でも後回し。元日の朝、父とぼくの枕元には、真新しい下着と新品の服が用意されていた。でもそういえば母の晴れ着は、ぼくが大人になってからも毎年同じだった気がする。

また一つ齢を重ねる新年。そのたび、母恋しさがまた一つ深まる。出来ることなら戻りたいあのころへ。そしてもう一度会いたい、あのころの若き日の母に。

*岐阜新聞「悠遊ぎふ」2008年1月号から転載。内容の一部に加筆修正を加えました。

 

<追記>

この原稿が掲載されてから約14ヶ月。明らかにぼくは、また一つ母がこの世を去った歳に近付いている。年と共に記憶の中の残像は薄れ往くはずなのに、母の思い出だけは鮮明さを増し、総天然色で甦ることが多くなった。特に一人で、強くも無い酒をチビリチビリと煽る時など。

昭和半ばに生を受けた人情絵師茶畑和也氏と、しがない文綴りのぼくは、自他共に認めるマザコンオヤジだ。そんな二人が、長良川の辺で昭和を生き抜く母を追う『長良川母情』。究極のマザコン追想記だと思って、お読みいただければ何よりです。

 

Googleマップ:分水領公園


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