銀のしずく降る降るまわりに。金のしずく降る降るまわりに。

(2009.11.26)
ニ風谷で見られる古来のアイヌの住処「チセ」。集落によって用いられる材料が違うのでそれぞれに個性あり。その土地の材料にこだわったというカーサブルータスの表紙も飾った若手建築家の海の家を思い出す。

この謡の、耳に届く音が大好きでよく口ずさんだ。アイヌ神謡集の中の梟の神が自らをうたう謡の一節だ。アイヌに昔から口承で残されてきたユーカラ(叙事詩)の、神々が自らの体験を語る神のユーカラ(神の謡と人の謡に分かれているうちの神の謡、カムイユカルと呼ぶ地域もある)をまとめたもの。恩師に薦められて気に入り、その本と共のCDも寝る前に聴いている。不思議とよく眠れる。その昔の、おばあちゃんの子守唄のような優しいもの。

アイヌのユーカラには、自然と共に生きていく智恵、自然を上手に使う方法が織り込まれている。巷で盛んに耳にする「エコ」「ロハス」な暮らしのヒントは遠くを探さなくとも、案外こんな身近に見つけることができるのかも。

モノには全てに神様が宿るとされていて、例えば、銀座で買った靴も神様。時が来たら(使いきりはけなくなった時)、靴の神様は私たちの元から神の世界(カムイモシリ)へと戻っていく。だから、人を飾り楽しませてくれた御礼を込め、お見送りをする。御礼を受け取ったその靴(神)は、元の姿へと戻り、周りの神様にも人の街での楽しかった体験を伝えるそうな。その話を聞いた他の神々も「ならば私も行ってみたい」と再び姿を変え人の世界に現れるという。いつか欲しいと思ったあのワンピースがそれかもしれない。

雪虫の舞う聖地二風谷。紅葉も見事に彩りを見せそよ風と共に細やかな葉が散り、空中を遊ぶように柔らかに踊る。谷には湖もあり、穏やかな水紋を見せてくれる。白鳥も低飛行を繰り返し水と戯れていた。

 
この謡と出会ってからいくばくかの月日がたち再び北海道を訪れることとなったのは10月半ば。紅葉がそれは美しいものだったけれど、既に雪の訪れを告げると言われる雪虫もふわふわと飛んでいた。地元の人に教えてもらった可愛らしい羽虫。もうそろそろ、雪も降り始めている頃だろうか。ちょうど、この謡のような里が北の大地の何処かにある……と思いを馳せれば、しんしんと雪の音に包まれる里山が浮かぶ。

その北海道への訪問で、幸運にも札幌から鵡川(むかわ)まで足をのばすことになり、旬のシシャモを食べる機会に恵まれた。シシャモは柳葉魚と漢字で書くのだけど、この文字の由来もアイヌ神話に端を発しているそう。北海道は、相変わらずそこかしこでアイヌ民族の息吹を感じることのできる土地だ。本来、ここで獲れるものこそがシシャモと呼べるもので、新鮮さゆえに寿司にして楽しむことのできる店もこの辺りにはある。残念ながら今回は行かずじまい。次回の楽しみにとっておくことにしたい。

儀式終了の頃の鵡川海岸。最初は曇りがちだったが太陽の光が差し込み美しさを増す。海から吹き上げるひんやりとした風に揺れるすすき。振りむけばおじさんが「さよならあ!」と手を振ってくれていた。
めぐみ水産の店先にぶら下がるたくさんのシシャモ。ひとさおいくらというおおざっぱな購入法。店内は旬のシシャモ目当てに集まる客で賑わう。シャケトバなどもあり他の水産物も豊富に揃う。お取り寄せも可。

 
シシャモを食べる前に豊漁を祈るシシャモカムイノミ(祈りの儀式)にも参加させて頂いた。鵡川アイヌ文化伝承保存会の皆さんによるもので、今年で結成30周年を迎えるという節目でもある。本物のシシャモを食すことも勿論、こんなきちんとした儀式を見せてもらえることも私にとっては全くの初体験となった。

そんな触れ合いの中、食、物を大切にし、全てに神が宿ると信じる気持ちが根付くことから、礼をつくし祈りを捧げる行為が自ずと生まれているのだと知った。アイヌの人々にとっては、それが正しいからでなく、話題性があるからでもなく、ありのままを自然に生きていて、ただ祈りが生じただけ。しなければいけないことはなく、何もしなくてもよくて、ただ望むならばすればいい。人は皆、そんな愛(自由)の上に生きているのかもしれないと気付かされる姿だった。

会場となったのは鵡川の海岸近く。太陽の下で簡易な囲炉裏(アイヌの人々は囲炉裏をとても大切にするそう。)が施され、炉には串にさされたシシャモが炭火であぶられる。東側にイナウ(けずりばな)と、水、火、土などの神々が奉られた祭壇があった。短い挨拶の後、場にアイヌの祈りの言葉が深く響き、そして、碗につがれたどぶろくが祭壇や囲炉裏に捧げられ後、祈りを捧げる者たちにまわっていった。端麗なアイヌ文様が施されたイクパシイ(箸)を添え、いなだき一口ずつゆっくりと。どこからともなく聞こえる和やかな会話。。。時間通りに事が進まなくともなんら問題視もせず、むしろそれらも儀式の一部のように、終始おおらかな気配で包まれるものだった。

さて、交流会へと流れ込む。先ほどより気になっていたほくほくの鍋はシシャモ汁。スープの香りが海風と共に私のもとにも漂ってきた。きびご飯に焼きシシャモ、お酒もふんだんに供され、囲炉裏であぶられていたシシャモもワイルドに串にささったままでまわってきた。思いきりかぶりついてみたのだが、それが本物だからなのか、祈りを捧げた後だからなのか、思わず言葉も出ない滋味深さに驚いた。

カムイノミを始める準備を整える男性陣。奥には自然界の神々を奉る祭壇が。海風が時折吹き、程よくシシャモが乾くのを手伝ってくれていた。
甘く優しいどぶろくは男性陣が祈りまわした後、控えていた女性陣にも回される。ぐいっと飲んだ後両の手を手前に引き寄せるような感謝を現す仕草をする。
儀式に使われた黒塗りの碗は太陽を受けきらきら光る。それぞれの箸に施された彫りにはストーリーもあり、その話を聞くだけでも楽しいもの。
囲炉裏でパチパチと音をたて炙られるシシャモ。横では炭火で暖をとり始まりを待つおじさんが。私は初体験なのでちょっぴり緊張の面持ちで眺める。
女性陣によって供されるほかほかのシシャモ汁。海風で冷えた身体も暖めてくれた。よおく味の染みた根菜にシシャモによるだしがかなり美味。これを読んでいる人にも食べさせたい!

 
お酒を飲みさらに場が和む中、アイヌのおじさんからもたくさんの話を聞けた。
コタン(村、集落)によって刺繍が違うこと。悪いものから守ってくれるよう願いを込めて刺繍を施すこと。アイヌ舞踊は全て自然界と繋がる暮らしの中から、鳥や風や……それらの動きを真似て生まれたこと。オーストラリアを旅した時出会った先住民アボリジニにも似たような舞踊があり、親近感がわいたこと。北海道での日々の暮らし、毎年こうしてどんな人でも受け入れ共に楽しんでもらっていること。脇でアイヌのおじさんに溶け込んで杯を交わしていた青年とも少し話す。

「郷に入らずんば、郷に従え。ですよね。僕はよく先住民を訪ねて旅もしてきたのだけど、いつもそうしています。そしてね、彼らはとてもおおらかです。社会にいると、スピーディに無駄無く物事を遂行していくことが格好良いことだったり評価されがちだけど、必ずしも全ての世界がそうなのではなく……。先住民に触れるとね、なんだか、そのおおらかさが大切なことのように感じるんですよね。それに僕、彼らに接することが大好きなんですよ」と、その青年。

私はこれらの話を楽しむ中、融通無碍な自由闊達なものも言葉の奥の方から感じていた。私も日常そうあれたらいいのに。と思いもするが、でも、時間(時代)に遅れるわけにはいかないという思いで満ち溢れる社会で、身を置いていれば当然焦りも生まれるし、つい無意識に緊張して暮らしている。それをどうこう変えようとするのではなく。そう気付いていることを大切にするだけでいいなと思われた。

さあ、酔いも程よくまわったところで、アイヌの方々に教えてもらっためぐみ水産へ。店の人のどんぶり勘定に微笑み楽しみながらの行列の末、新鮮でお値打ちなシシャモをようやく購入。みっちり詰まった子持ちシシャモにフワリとした身が魅力の雄シシャモ、どちらも濃厚な旨味に程よくのった脂が美食この上ない。

次第に太陽が顔を出し明るくなって来た頃、女性陣による伝統舞踊の披露が始まる。マイクを通し、舞踊の説明をわかりやすく丁寧にしてくれている。
すっかりと太陽が顔を出し明るく照らす中、出会えたよろこびを現す古来の舞踏を舞う若く美しいアイヌ女性達。動きのひとつひとつは、風や光、鳥や動物など自然界にインスパイアされたものだという。
中学校1年生の男の子による、男子が狩りに行く前に舞う舞踏の披露。練習を重ねたそうで、少年ながらにしっかりと地を踏みしめ舞う様が堂々と勇ましく、思わず背筋を正す。

さらに近くの二風谷に移動。二つの風が出会う谷という名のアイヌの聖地だ。
この辺りは、幾つかのアイヌの職人による工房も点在していて、ショッピングも楽しめるスポットでもある。ここでもお薦めの店を訪ねることに。店内にはたくさんの商品が並び、奥には仕事場も見える。一つ一つを手に取ってみればどれも美しく繊細で高度な仕事が品格も醸す。お洒落心を十二分にくすぐる木製のアクセサリー類は発色も美しくデザインも先進的。あのmotherのチュニックやフィリップ・リムのニットにだって合うかも。などと夢想しながら鏡を覗き楽しんだ。衣服にしても、器にしても、細やかな刺繍や彫りの卓越した手技は日本人ならではのもの。そこにアイヌ民族独自のエッセンスが加わり、ここでしか在り得なかった素晴らしき用の美となって奇跡のように生まれていた。

つとむ工房内で見せてもらった道具たちは大切にされパワー溢れるもの。職人は道具ありき。手前にちょこんと鎮座するのはコロボックル。なんだか生きているような存在感。やたらと目が合い思わずご挨拶を。

 
食も芸術も堪能した旅の最終日、何十年に一度という長いしっぽの流れ星「オリオン流星群」をも観ることが叶う。夜空いっぱいの星々には大感激。こんなにたくさんの煌めく星を見るのは何年ぶりなのだろう。今にも落ちてきそうで、きらきら星が嬉しくてたまらない。時折闇夜の向こうから聞こえた鹿の鳴き声も気分を盛り立ててくれていた。

満天の星空も、幻想的な紅葉の舞いも、優しい風も、アイヌの儀式も、美味しいシシャモも、煌めく宝物。あの神謡集との出会いから縁が続く北の大地で、美しい景色や素晴らしい食事の数々に出会わせてもらえたこと、北海道に住まうカムイたち、精霊たちへ、そして機会を下さった方々へ感謝をしたい。

そして、この自然に満ちた北海道も、東京も、はたまた地球の辺境、宇宙の遠い何処かも、そう、何も仕切りはないということ。それぞれの営みや景色は、同じ空間の中にある。見上げれば大きく空が広がる。どんな天気であろうとも、けっして目立たないけれど、その後ろに青空という器がただ静かに在る。そう思うと、この世界をかけがえがないものに感じ、あるがままの姿であって欲しいと願うのだった。

ここまで綴った豊穣なる大地への旅で出会ったもの、希少な流星群や温かなアイヌ民族との触れ合い、有り難い気付き、そして喜びも悲しみさえも……。この大きな空(不変なもの)に内包される儚い世界だとしたら、一瞬、全てを包みたくなるほど愛しくなる。だからこそ、自由であって欲しいとも思い、この気持ちは次の瞬間で手放してしまおうとも思っていた。

願わくば、無垢な目でこの世界を見ていたいと願う。

こんなことを感じさせてくれた旅だった。常に一つのものを指し示してくれていた。次は、どこに行くことになるのだろうか。大きな手のひらの中で私は旅をしている。