from 山梨 – 12 - ラグビーを楽しむ その3:「吹くべきか吹かざるべきか」-ラグビーのレフリング。

(2010.08.16)

少々時間が経ってしまいましたが、第19回FIFAワールドカップは、スペインの劇的な初優勝で幕を閉じました。
日本は岡田監督自身が掲げた「目標はベスト4」には及ばなかったものの、試合を重ねるごとにひとつにまとまっていくチームから目が離せず、決勝トーナメントで負けた時にはベスト8進出ならずということよりも、「このチームの試合はもう見られないのか」という意味で残念に思ったくらいです。

この大会で私がとても嬉しいと思ったのは、日本人レフリー活躍のニュース。
中でも西村雄一レフリーは、グループリーグ3試合(ウルグアイ vs フランス、スペイン vs ホンジュラス、ニュージーランド vs パラグアイ)と準々決勝1試合(オランダ vs ブラジル)の計4試合で主審を務め、ウルグアイ vs オランダの準決勝戦、そしてオランダ vs スペインの決勝戦では第4審判員を務めました。

レフリーは「反則を取る人」だと思われがちですが、レフリーの役割というのは「試合を作ること」であって、「反則を取る」というのはそのための手段のひとつです。
これはレフリーが何かを強引に作り出すということではなく、選手の良さ、チームの良さ、試合(の流れ)の良さをレフリングで殺すことなく、レフリングによって最大限に引き出すという意味。
それにはレフリー自身のこれまでの努力や経験、また、そこから生まれる判断力と、レフリー自身の人間性が欠かせない要素であり、レフリーが評価されるということは、それらが評価されるということに他ならないわけです。
そしてその評価は選手や監督、観客、メディア等から寄せられる信頼の結果であって、その信頼こそが「良い試合」を作り上げていくのだと私は考えています。
そんなわけで、世界の様々な国が同じ舞台に立つワールドカップという大会で日本人レフリーの笛が評価されたというニュースを、私はとても嬉しく思いました。

 

ラグビーのレフリー

ということで、今回はラグビーのレフリーについて書いてみようと思います。
意外かもしれませんが、ラグビーのレフリングでは、ルールブックに則って全ての反則を取るというようなことはありません。
危険なプレーではなく、試合の流れに影響しない反則であれば、笛は吹かないのです。
これは、反則を見逃すこととは違います。
レフリーに求められているのは、反則がプレーに与えた影響を判断した上での、安全で一貫性のあるレフリング。
なぜなら、ルールブック通りに反則を取っていたら試合は止まってばかりで流れなくなるし、選手は思い切ったプレーができなくなるしで、試合がつまらなくなってしまうから。
レフリーが「今の反則、笛を吹きたいけどここは我慢か…」なんて葛藤をしているのかと思うと、ちょっと意外な感じがしますよね。

 
このレフリングの基本方針は、日本ラグビーフットボール協会による「2009年レフリング指針」の中で、「安全性、公正及び一貫性を持ったレフリングで、ダイナミックかつ継続性のあるラグビーを創出し、チーム、プレーヤー及び観客に最高の感動を与える」と定義されています。

そのせいか、ラグビーのレフリーは試合中、選手と実に良くコミュニケーションをとっています。
例えば、試合の流れに影響しないからと笛を吹かないオフサイドも、増えてくれば「オフサイドが増えて来てるから気をつけて」と注意をするし、タックルがハイタックル(危険なプレーとして禁止されている首から上へのタックル)に近づいてきていれば「ハイタックルになりかけてるから気をつけて」と注意をする。
反則の笛を吹いて試合を止める前に、反則にならないように注意を促しているわけです。

また、試合が白熱してきてラフプレーが増えてきた時には「ここまで続けてきた素晴らしい試合をラフプレーで台無しにしないで欲しい」といったお願いのような注意や、例えば高校ラグビーでは選手が自分を鼓舞するために過度な声出しをした時には「○○くん、大声出さないように」なんて注意をすることもあるのです。
その後、選手が注意や指示に従えば「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えます。

そして笛を吹いた時。
特に密集プレーの中や周辺では、反則を取られた選手やチームが「今なんで笛を吹かれたんだ?」と理解できないことが良くあって、そんな時にレフリーは試合を止めて、プレーの状況と判断の内容を選手にきちんと伝えます。
選手がレフリーの笛に納得できないまま試合を続けていくことはラフプレーにつながりやすく、試合が荒れる原因になってしまうからです。

ジャパンラグビートップリーグ2009-2010開幕戦
東芝ブレイブルーパス×三洋電機ワイルドナイツ戦でのレフリングのワンシーン(2009年9月4日)

私は、このレフリーと選手がやりとりをするシーンが、ラグビーらしくてとても好きです。
でも、他のスポーツではあまり見ることのない、試合を止めてレフリーが選手にルールの説明をしているというシーンは、初めてラグビーを観戦する人が「なにがあったの?」「なにやってるの?」と異質に感じるシーンのひとつなのかもしれません。
私自身、ラグビーを見始めた最初の頃、ラガーマンに「あれ、なにやってるの?」と聞いたことがあって、でも返ってきた答えは案の定、「ルールがわかんないから教えてもらってる」でした。
……この人たち、ほんとに面倒臭がりだなー。

レフリーが選手に注意をする時、当該選手本人に伝えるだけで終わることもあれば、場合によってはキャプテンを呼んで、キャプテンから選手やチーム全体に注意をさせることもあります。
キャプテンがレフリーに呼ばれた時に他の選手がついていくと、「きみは下がって」なんてぴしゃりと言われます。
キャプテンからメンバーに注意をさせるというのは、レフリーがチームのメンバー全員に伝える事を面倒臭がっているとか、キャプテンの責任を問うているということでは全くなくて、キャプテンシー(キャプテンとしての地位)を尊重しているということ。
キャプテンシーを尊重するということは、キャプテンシーを作り上げているキャプテンの統率力や部員からの尊敬、そして何より、チーム全体の信頼関係を尊重しているということなのです。

 

躾のスポーツ

ラグビーが紳士のスポーツであるというのはラグビー発祥の地であるイギリスに馴染んだ表現であって、日本人にとって馴染みやすい表現に言い換えるなら、「ラグビーは躾のスポーツである」になるのかな、なんて考えることがあります。
私は、躾というのは親が子供に対して行う一過性のものだけではなく、何歳になっても、社会や集団における規律や礼儀作法、慣習などを理解して身につけながら自己を確立し、理性や品のある立ち居振舞いをしようと自分自身が日々努めていくことだと考えていて、そういう行いを「紳士的」だと思うからです。

先日、クラブチームの試合中に非常に興味深いシーンを目にしました。
AチームとBチームの試合でAチームがトライを決め、コンバージョンキックを蹴る時のこと。
この場面で、トライを決めたAチームはコンバージョンキックを蹴る選手以外は自陣に戻り、そこで給水などをすることになります。
試合前、レフリーから「給水は自陣で」という注意があったにも関わらず、Aチームは敵陣内で給水を始めてしまうことが何度かありました。
選手は早く水を飲みたいと思い、給水係も早く選手に水を飲んでもらいたいと思うことから起こってしまいがちではあるのです。
その都度、ラグビー協会のスタッフの方が「給水は自陣でやるように」と注意をしていたんですが、何度目かの注意の際に「給水は自陣でやって。これはマナーだから」とおっしゃいました。
注意を受けたAチームの控えの選手が「頭の悪いヤツばっかりなんで。すみません」と答えたところ、この時はそれでは済まず、スタッフの方はたたみかけるように「マナーなんだ。わかる?気配りなんだよ、相手に対する。気を使えばいいことなんだ」とおっしゃったのです。
この様子を見ながら、大人になってもこういうことをきちんと言ってくれる人がいるラグビーってほんとに素晴らしいなと思い、そして、自分もこういうことをきちんと言っていく人にならなければいけないな、とも思いました。

試合後、近くにいた人間とそのことを話していた時。
「そもそもマナーって、なんのためにあるんだろうね。周りの人のためとか、社会のため?自分のため?」
「マナーを守らない人って、指摘された時に”誰にも迷惑かけてない”って言うよね」
「それ、セルフジャッジだよ。セルフジャッジはダメなんだ」

ラグビーにおけるセルフジャッジというのは、試合中にレフリーの判断を聞かずに自分で判断してしまうことです。
例えばレフリーが笛を吹いた時、その笛の理由を選手が勝手に判断してプレーの再開方法を誤ったり気を抜いたりすることによって、一瞬にして相手にカウンター攻撃のチャンスを与えてしまうという、大変恐ろしいもの。
給水にまつわる話はこの時、「セルフジャッジは、ラグビーでも実生活でもダメってことなんだな」という結論になりました。

今回の記事をまとめながら、「ラグビーにおけるレフリーの立場、役割ってなんなんだろう?」とずっと考えていました。
ルールブックに則って全てを裁くわけではないし、反則になる前に注意を促したりすることからも、「反則を取るのが仕事の人」でもなさそうだし。
そして、ラグビーをやっている人に聞くと「レフリーの言うことは絶対」だと言う。
でもその「絶対」っていうのは独裁的なものでも絶対君主的なものでもないし、そもそもラグビーを観戦する時に、レフリーのレフリングを見に行くなんてことも(たぶん)ない。
今、ラグビーというものにひとつの世界観を重ねながら、ラグビーのレフリーというのは、絶対的なひとつの立場や役割ではなく、「世間の目」とか「民心」のようなものなのではないかという気がしています。
それは、先人や自身が積み重ねてきたものをさっさと忘れて簡単に流されてしまうあやふやなものではなく、積み重ねてきた努力や経験から、今何が正しくて何が間違っているのかを判断するもの、という意味で。

 
長くなっちゃったのでいったん区切って、エリアナビfrom山梨は次回もラグビーです。