from 北海道(道央) – 68 - 「北緯50度」。
1906年という、時の記憶を留める。
(2013.04.25)
「歴史を語る」建築物。
そろそろ、日本で最も遅い「桜」についてお伝えできるかと思っていたが、4月中旬に入っても雪が降る今年の天気は、北国に住む者にとっては厳しいものだ。
その小樽の街に存在する「旧日本郵船株式会社小樽支店」の建物。JR小樽駅をまっすぐ運河方面へと歩き、運河沿いに左に10分ほど歩いたところに存在している隠れた名所。
小樽の街が明治以降の日本にとって、重要な役割を果たしてきたことを再認識するためにも、とても重要な建築物なのだ。設計者は、日本水準原点を設計した佐立七次郎(さたち・しちじろう。1857年1月- 1922年11月)。
石造による外観そのものに加えて、内装にも素晴らしい工夫が施されている。鹿鳴館、箱根離宮、国会議事堂でも利用されたが、現代ではその職人芸が途絶える危機が伝えられる、菊模様の金唐革紙(きんからかわし)の復元が近年ここで行われるなど、日本と世界各地とを結ぶ航路を有した「日本郵船」の力の大きさを知ることができる。
ちなみに、この辺りは、映画『しあわせのパン』のロケでも使われるなど、小樽の原風景的なものが残っている場所でもある。
《参考》金唐紙の歴史
『坂の上の雲』のその後。
数年前、司馬遼太郎原作の『坂の上の雲』がNHKで放映され、幕末から日露戦争に至るまでの経過とその時代に生きた人々が注目された。むしろ自分にとっては、日露戦争後のとても難しかったであろうと推察される戦後処理を題材とした、吉村昭の『ポーツマスの旗』に描かれた当時の外相・小村寿太郎のとてつもない苦労が、深い印象として脳裏に刻まれている。
昨今、竹島、尖閣諸島といった日本の南西における固有の領土に脚光が当たっているが、北海道に住む我々にとっては、「北方領土」というロシアとの間で決着のつかない大きな課題を忘れるわけにはいかない。
明治維新後の1875(明治8)年にサンクトペテルブルグ条約(千島・樺太交換条約)において、日本は現在の北方領土と呼ばれる4島を含む千島列島を領土とし、日露双方の国民が生活していた樺太をロシアに引き渡す条約を結んだことが、日露における領土画定の第一歩であった。
実は、この旧・日本郵船小樽支店は、その後の日露国境画定という作業に関わる重要な「場」としても、用いられたという重い歴史を有している。
「北緯50度」。樺太における日露国境画定へ。
1904(明治37)年2月に日露開戦、その年に、旧日本郵船小樽支店の建物が着工された。その翌年の9月にポーツマス条約が締結され、北緯50度以南の樺太の南半分の日本への永久譲渡などが決まり、翌月に建物は落成と、まさに日露戦争の歴史と同じ流れでこの建物は完成し、北海道では数少ない外交上の歴史の舞台にもなるのだ。
日露戦争の趨勢については、今となっては皆さんご承知のとおりだが、その当時、ロシアが誇るバルチック艦隊を撃破してロシアに圧勝したと聞いていた日本国民にとって、戦後、ロシアから莫大な賠償金や領土割譲を受けるものと誰しも確信していたはずだ。
一方で、戦費調達がままならなかった当時の日本政府としては、一刻も早くロシアとの戦争を打ち切ることが、最も重要な課題であった。
そのような政府の実情を知る由もない日本国民にとって、ポーツマスで行われる講和会議における交渉のために渡米する小村外相への期待は大きなものであったが、1905(明治38)年9月にロシアとの間で締結された「ポーツマス条約」は、日本国民を失望させるに十分なものであった。その結果、日比谷暴動に続く焼き討ち事件など、新たな歴史のうねりへと続いていく過程は是非、実際に史書などで再確認いただきたい。
日露平和条約の締結に向けて。
ポーツマス条約締結後、この旧日本郵船小樽支店の2階会議室において、樺太での国境画定に向けた実務者会議が、1906(明治39)年11月13日から21日までの間行われ、北緯50度に国境が設けられるに至ったのだ。
取材当日、小樽観光ガイドクラブに所属する萩山喜子(おぎやま・よしこ)さんに展示品等の説明、そして館内をご案内いただいた。「鰊は日本海を南から北へと遡上し、鰊の移動とともに、労働者や賑わいのある街も北へ北へと移りゆく中、最後には鰊とともに人々は樺太まで移動していったんです」という説明を受けた。「北前船の後に続く、戦後、そして小樽の歴史を多くの人に知ってもらいたい」という萩山さんの思いは、自分の心を打ち、筆を動かされるに十分なものであった。
このような経緯を経て、第2次世界大戦後、現在の北方領土を取り巻く情勢に至ったわけだが、樺太という土地を含め、幕末以降今日に至るまでの歴史を振り返れば、先だってプーチン大統領が森元総理に語ったと言われる「hikiwake」の意味がどういうものなのか、我々日本人は歴史に学ぶ「知恵」を発揮して解決に当たることも必要なのではないか。この建物に足を踏み入れて、過去から続く歴史と現実を直視した瞬間、ふと思うのであった。