from北海道(道央)番外編 《2013夏イタリア》vol.4新たなローマ教皇の誕生。
ローマ、そしてバチカン。
(2013.08.15)
新たな「ローマ教皇」の誕生で賑わうバチカン。
2013年3月、史上初のアメリカ大陸(アルゼンチン)出身のローマ教皇・フランシスコが選出され、バチカンは一層の賑わいを見せている。その影響で、今月から観光客用のバス待合所へのバスの乗り入れが規制されるなど、随所にその余波が広がっていると聞く。
カトリックの総本山であるバチカンへの各国からの巡礼者にとっては、「生涯に一度だけでもここを訪ねてみたい」との強い願いを叶えることのできる「とき」と「場所」であり、物見遊山で足を運ぶ観光客は、そのことを十分に心得て訪ねるべき場所でもある。
「ローマ教皇(法王)」の起源。ローマ帝国で、テオドシウス帝が380年にキリスト教を国教と定める。「キリストの代理者」という称号が史上初めて登場したのは495年。ローマの司教会議で、教皇ゲラシウス1世を指して用いられたとの記録が残されている。その後。ローマ帝国の分裂後、752年にフランク王国の王ピピン3世がランゴバルド王国から奪ったイタリアの領土を寄進し「教皇領」が成立。これにより、今日のカトリック総本山としての「ローマ教皇」という立場が確立するとともに、バチカンを中心とする領土を保有することによって、教会の世俗化が始まったとも言われている。
こうして着実に固まっていった「教皇領」による教皇の支配。それまでの皇帝に支配される教皇と、立場は逆転してしまう。その教皇の立場を後押ししたのは、経済力を持ったフィレンツェであり、ヴェネツィアであり、ミラノという北イタリアの国々であった。
ルネサンスの萌芽。新教皇への期待感。
イエスの死後、キリスト教各派間の抗争を解決するため、ローマ皇帝コンスタンティヌスの指導と庇護の下、325年5月、「第1ニカイア公会議」が開かれた。この会議は、ローマ帝国の求心力低下という課題解決のためにキリスト教勢力を皇帝側が利用することに本音があり、ローマ皇帝がキリスト教に介入した最初の出来事としても記録されている。
ところが、「4世紀にコンスタンティヌス大帝がキリスト教をローマ国教とする際、ローマ帝国の西半分を教皇に寄進した」という内容が記された『コンスタンティヌスの寄進状』。15世紀に古典学者のロレンツォ・ヴァッラ(Lorenzo Valla 1407− 1457)がそれを偽作であると見破るまで、人々はそれを信じて疑わなかったというのだから、ある種、教皇側の深謀遠慮を感じる。塩野七生氏はヴァッラについて、「既成の考え方に疑いをいだき、それを明言する勇気をもった」人物であり、ルネサンス人の一人であると言わしめている。
今度のローマ教皇は「フランシスコ」と名乗ることになったが、前回ナポリ編でご紹介したフェデリコ2世同様、ルネサンスにおける初期の重要人物と言えば「アッシジの聖フランチェスコ(Francesco d’Assisi 1182-1226)」。故・河合隼雄氏が指摘していた「明恵上人とアッシジの聖フランチェスコ」の類似性から辿っていくと、平易な言葉を用いて人々に教えを説く、痛みを抱えるものに寄り添い癒すといった点にあるのだろうか。フランシスコ(=フランチェスコ)が、カトリックの何らかの現状を打ち破る、あるいは親しみを持って信者に接してくれることを、多くの信者は願っているのかも知れないとバチカンを歩きながら想像した。
ローマ近郊の「ワイン文化史」から。
アッシジのフランチェスコらの死後、ダンテ、ジョットーという芸術家は「自由な表現」を認められずに想像を絶する苦労をしたのだろうが、彼らの生きた時代が産みの苦しみだとすれば、ルネサンスはフィレンツェにおいて華開くことになるのだろう。
もちろん、そのルネサンスの偉大な画家・ミケランジェロの『最後の審判』がバチカンのシスティーナ礼拝堂に現存するなど、ローマとバチカンは、まさに芸術の宝庫である。
ところで、ワイン文化史の観点から歴史を眺めると、新約聖書に散りばめられた数々の言葉の影響を受け、ワインの生産体制はカトリックによって確実に保護されてきた。
これは一つの説。962年(又は800年)に成立した「神聖ローマ帝国」。その皇帝となったハインリヒ5世(Heinrich V。1086-1125)は、「叙任権闘争」に関連してドイツからローマ教皇に会いに行く際、無類のワイン好きの大僧正・アウグスブルグを同行することにした。アウグスブルグは、道中ワインを欠かしたくないという熱意から、従者を先に旅立たせ、美味しいワインのある酒蔵に「Est!(エスト=ラテン語で「ある」)」という目印を付けるよう命じたそうな。今でいうところの「三つ星」が「Est!Est!Est!」だったのだろうか、ローマの北にあるモンテフィアスコーネで発見した三ツ星ワインが「エスト!エスト!エスト!ディ・モンテフィアスコーネ」として今の時代でも飲まれている、とか。この辺りの畑では、トレッビアーノ種やマルヴァジーア種が造られているのだろうかと、葡萄の葉を観察するのも、また楽しい。
すべての道はローマに通ず。
フランスの詩人ジャン・ド・ラ・フォンティーヌは、「すべての道はローマに通ず」と17世紀に書き残した。アッピア街道沿いの地中海松は、見事に手入れされていて、地中海松に沿って遠い昔から多くの人たちや軍人たちが、馬車でこの道を駆け巡っていたのだろうと想像すると、イタリアという国の歴史の重たさを感じる。特に、「教皇領」の発展とルネサンスの過程を正確に理解する努力も必要なのだろう。
ローマのあるラツィオは、ちょうど向日葵が見頃だった。イタリアでは、食用油として向日葵を使っている割合も高く、景観だけではなく、実際の「食」として用いられているのだ。
ラツィオに限らず、高速道路、鉄道から見える風景は、まるで北海道の酪農地帯にいるかのように「牧草ロール」がたくさん転がっている。一方で、それを食べる牛たちは、道路や鉄道沿いにはいないところが、北海道的感覚からは面白い=不思議と感じる。
そういった光景が、ローマの街中、フィレンツェの街中から外れるとすぐに広がっているのを眺めていると、イタリアの郊外は北海道に似ているのかなぁという感覚に浸ってしまう。
バチカンを含むローマの街は、イタリアだけではなく、人類全体が今後とも大切に残していくべき財産であることを、我々は認識すべきと強く感じた。