from 北海道(道央) – 67 - 「銭函・ぜにばこ」。
その不思議な土地を歩いてみる。
(2013.04.02)
これからの季節、「銭函」は賑わいを見せる。
今シーズンの小樽・札幌方面は、雪深い冬であった。例年の1.5倍程度の積雪は、通勤バスの行く手を阻み、朝・夜の通勤の足を直撃し続けた。「雪を楽しむ」というよりは、「雪との格闘」の冬であったといっても過言ではない。
そんな冬も終盤を迎え、少しばかりの春の兆しを感じられる日、久しぶりに「銭函(ぜにばこ)」の地を訪ねてみた。
銭函は小樽市の東端に位置し、札幌市手稲区と行政区域を接しているのだが、JRで銭函駅までは札幌駅から普通電車で約26分、小樽駅からは約17分であり、その駅間距離から漠然と考えると、「銭函」という独立した町かのような錯覚を地元民は覚えることさえある。
大瀧詠一のアルバム『A LONG VACATION』に散りばめられた曲を聴きながら、この海岸を歩いた学生時代が妙に懐かしく思い起こされる「銭函海水浴場」(銭函駅から徒歩15分)。
また、そこから遠くに眺めることができる二つのスキー場。どちらのスキー場からも、スキーやスノーボードを楽しみながら、銭函の美しい海岸線を見下ろしながら滑ることができる。
いずれにせよ、札幌からも小樽からも気軽に通うことのできる海水浴場のある街として、本州とは比べものにならないほどの短い春・夏、「銭函」は賑わいを見せることになる。
北海道の中でも歴史の古い街。
銭函の歴史は、北海道の中では古い。1780(安永9)年9月に、松前の商人である阿部屋伝次郎が城主の命によりこの土地を巡察。その後、近海における鮭漁業を命じられた際に、銭函以北の鎮守として「漁場の鎮護大漁安全を祈願」するため建立された「尊伝稲荷神社」が祖とされる、豊足神社(とよたりじんじゃ)が、銭函駅から徒歩8分ほどの高台にある。
また、神社の境内には、日露戦争時代にロシア軍が日本海に敷設した「機雷」の残骸が残されていて、その解説を読むと「北海道開拓の父」とされる島義勇(しま・よしたけ。1822年10月~1874年4月)が、1869(明治2)年に開拓使判官に就任し、この銭函の地に「開拓使仮役所」が設置されたことも記されている。
そのことからも、今日の北海道の発展には、この銭函という土地が重要な役割を担ったことが理解できる。
「銭函」という名称の由来は。
一方、「銭函」という土地の名称の由来は、鰊(にしん)漁で栄え、この街のどの漁師の家にも「銭箱が積まれていた」からだという説が有力とされる。
しかし、道南の松前から道北の留萌沖に至るあちこちの街に「鰊御殿」が存在し、北前船で本州に運ばれ莫大な富を鰊によって築いた商人たちが多く存在していた名残がほかの街に残されているにも関わらず、現在の銭函には大きな「鰊御殿」が残っておらず、商店に衣替えした「蔵」が僅かに残されている現実を見ると、本当のところ地名の由来は別のところにあると考えてもよさそうだと、自分は思っている。
ちなみに、小樽の高校に銭函から通学する学生たちは、自他ともに「ゼニバー」と呼んでいるらしく、小樽に移住してきた自分にとっては聞き慣れない違和感を覚えたものだ。
人々の心を癒す「銭函」。
日々JRで銭函駅を通過するたび、不思議に思うことがある。実は、ホームの西端下に川が流れていることを発見。「銭函川」であり、河口も駅からほど近いところにある。
銭函の取材に訪れた際、たまたま自分と同様に銭函駅に降り立った一人の男性がいた。
福士憲一(ふくし・けんいち)さん。63歳と伺ったが、「今から3年前に会社を退職したのですが、昔から海が大好きで、天気がよい日にはこの海岸を1時間から2時間ほどかけて散歩しているのです」と語られる健脚な紳士。
「今日は天気がよいので、隣町から銭函へとやってきた」そうだが、夏場には釣竿を片手に河口付近でのんびりと釣竿を垂らしているとのこと。
「昔は鰊がたくさんいたと言われますが、この銭函川のほかに数本の河川が銭函の海に流れ込んでいます。栄養価の高いプランクトンなどが流れ込んでいることで、魚にとっては格好の生息場所だったのだと思います」と。「自分も、一日二枚の鰈を釣って帰宅するのが楽しみなのです」と笑顔で語ってくださったが、多くの人に愛される土地である銭函は、ただ単なる物質的な「銭函」ではなく、今も昔も多くの人々の心を癒してくれる存在としての「銭函」であったのだと、自分は信じていたい。