from北海道(道央)番外編 《2013夏イタリア》vol.5メディチ家、そしてルネサンス。
フィレンツェ。

(2013.08.21)

カエサルと二つの河川。

「賽は投げられた」とガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar。紀元前100-紀元前44年)は紀元前49年1月10日、そう発して彼の率いる軍団が渡ったと言われるルビコン川。アペニン山脈から東へと流れアドリア海へと注いでいる。

そのルビコン川と同じアペニン山脈の若干南側を水源として、フィレンツェのあるトスカーナ地方で流れを西へと変え、ピサ付近でティレニア海へと注ぐ川。それが「アルノ川」だ。

古代エルトニア人によって建設されたと言われるが、カエサルがルビコン川を渡る10年前の紀元前59年、退役軍人への土地貸与という方式で、ローマの植民都市として建設されたのが、このフィレンツェなのだ。

フィレンツェの街を東から西へとゆっくりと流れ、途中「斜め堰」が何箇所か設置されていて、水辺が見る人の心を落ち着かせてくれる存在のように感じられる。

水量の豊富な河川は、土地を肥沃にすることから、トスカーナ地方は豊かな食に恵まれ、都市の発展に欠かせない条件を満たしたのであろう。


フィレンツェを通るアルノ川に架かる最古の橋。ヴェッキオ橋。
まずは何よりも「ウフィッツィ美術館」。

塩野七生氏は『ルネサンスとは何であったのか』(新潮社)のいわば前書きに当たる箇所には、初めてイタリアへと渡ったときのことを次のように書いている。

「何よりもまずフィレンツェに行き、ウフィッツィ美術館に走った。(略)はじめて見る芸術作品の傑作の数々を前にして、私は、感動するというよりも何よりも、存在しうるがきりの神々に誓った。死んでも作品の解説はしない、と。芸術作品とは、仲介者なしでそれと一対一で向い合い、作者が表現しようとしたことを虚心に受け止めるべきものだと感じたのである」と。

まさに、ウフィッツィ美術館に展示されている作品すべてが、ルネサンスとは何かという問いに対する一人一人の芸術家それぞれの答えを用意してくれているし、それを感じることのできる感性を見る側である我々に求めている。

ローマ教皇庁と神聖ローマ帝国との勢力争いは、13世紀にイタリア北部で激しくなる。最終的には教皇派が勝利することとなるのだが、その後、教皇派の内部対立の結果、フィレンツェに生まれ育ったルネサンスの先駆者たるダンテ(Dante Alighieri。1265-1321年)は、フィレンツェ追放の憂き目に遭う。そして、今この時代にあってもフィレンツェでは、ダンテの遺骨が葬られているラヴェンナに対して、ダンテの遺骨返還を要求している。


ウフィッツィ美術館。入場券を入手するのも、一苦労。
メディチ家の繁栄とその栄華。

ローマ教皇庁の後ろ盾となりつつ、ルネサンスを支えるだけの財力を手に入れたのは、フィレンツェの「メディチ家」であることは万人の知るところ。

とりわけ、ロレンツォ・デ・メディチ(Lorenzo de’ Medici。1449-1492年)は、フィレンツェ共和国の繁栄には欠かせない存在である。銀行家であった祖父コジモ(Cosimo de’ Medici。1389-1464年)が設立した「プラトン・アカデミー」を主宰し、今日我々が目にすることのできる美術、建築、彫刻、文学の世界は彼の庇護により存在していると言っても過言ではあるまい。また、フィレンツェの主要な美術家をイタリア各都市へと積極的に派遣することによって、ルネサンスはイタリア各地で華開くことになった。

フィレンツェの街並みは、今もその当時の面影を随所に残している。共和国時代に市民集会が開かれたという「シニョーリア広場」は1382年に完成。また、シニョーリア広場を見下ろす「ヴェッキオ宮」は15年の月日をかけて1314年にアルノルフォ・ディ・カンビオによって建設された共和国政庁舎。

何より、1296年から172年間かけて建設され、約3万人が入ることのできるという「ドゥオーモ(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)」は、人類にとっての傑作としか形容し得ない素晴らしさである。


左:シニョーリア広場をゆっくりと進む馬車。
右:シニョーリア広場にて。

左:ランツィのロッジア
右:94mの塔を抱くヴェッキオ宮。

左:ドゥオーモ(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)
右:高さ85mの「ジョットの鐘楼」。

左:サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂。
右:フィレンツェの街の仲通り。
「マンジャ・ファジョーリ」と呼ばれるトスカーナ人。

トスカーナの人々は「mangia fagioli(マンジャ・ファジョーリ=豆食い)」と呼ばれている。確かに、レンズ豆、ひよこ豆など、豆類の入ったスープを勧められる機会が多く、一瞬「うっ」と唸ってしまうこともあったのだが。

1500年代前半と思われるが、メディチ家出身のローマ教皇クレメンス7世に西インド諸島からインゲンマメが送られてきた。教皇に栽培を託されたのはフィレンツェの司教座聖堂参事会員・ヴァレリャーノなる人物だったそうだ。彼は、北イタリア一帯にインゲンを普及するため、メディチ家からフランス国王・アンリ2世へと嫁いだカテリーナ・ディ・メディチ(=カトリーヌ・ド・メディシス)の荷物にまでインゲンマメを忍ばせたという逸話まで残っている。どうやら「マンジャ・ファジョーリ」の所以はその辺りにありそうだ。

ちなみに、カテリーナは、当時ヨーロッパで最も洗練されていたイタリア文化をフランスに持ち込んだ人物。フランス料理の源流、食器類やサーヴィスなども、この頃フランスに持ち込まれたと言われている。(『食の世界地図』21世紀研究会編・文春新書)

このクレメンス7世がローマ教皇に就任した1523年は、ロレンツォの死後30年経過しており、メディチ家の栄華も下り坂となり、ヨーロッパ情勢が不安定さを増していく時代でもあったことから、皮肉ながら「悲劇の教皇」と言われる。

フィレンツェの北側を見渡せるミケランジェロ広場にて、暫しルネサンスを想うのであった。


アルノ川の南側の高台「ミケランジェロ広場」からの光景。

ミケランジェロ広場にあるダビィテ像。

左:ファジョーリのスープ
右:フィレンツェ風のボロネーゼ

左:鶏肉のロースト・トマトソース
右:北イタリア発祥の「ティラミス」