from ハワイ – 9 - He is up to the sky. ある2世ローカルの人生。

(2010.05.17)
5月はジャカランタの花の季節。標高の高いアップカントリー以外のワイルクでも花が咲く。戻ってきたトレードウィンドにゆれるこの花を見ると南の島の天国にはこんな木があるのだろうと思ってしまう。

3月22日の早朝、私たちのミツさんが亡くなった。倒れてから約9カ月、奇しくもオバマ大統領の医療改革法案が可決した日、全米がニュース番組に釘付けになったその日の早朝、私たちのミツさんは一人ですっと亡くなった。

ミツさんはハワイ島ヒロの郊外で生まれ育った。マカデミアナッツなどの農作物を作っている日系移民家族の6人兄弟の末っ子。いわゆる移民社会で育った日系2世にあたる。生まれも育ちもハワイだが日本語が話せ、日本人の心を強く併せ持って日本が大好き、そんな世代だ。

勉強やスポーツはあまり好きではなかったらしい。 料理を作るのが大好きで農家の仕事を手伝う気になれずコックになったという。オアフ島、ラナイ島とあちこちの島を渡り歩き、30年近く前マウイ島のワイルクに落ち着いた。

生涯働いたレストランは数えきれない、ハワイ島コナのショッピングセンターやマウイ島ワイルクインダストリアルにも店を出した事がある、観光でハワイを訪れた人も、もしかしたらどこかでミツさんの料理を口にしているかもしれない。

自分のお店を持っていた時以外は、いろんな店で雇われコックさんとしても働いていた。高級レストランではない、いわゆるローカルフードの店ばかりだった。運転免許を持っていなかったミツさんは歩いて出勤できる範囲のレストランを転々としながら、いつもどこかで料理をしていた。

ICHIBAN OKAZUYA/昔から変わらないワイルクの小さなお弁当屋さん。テイクアウトスタイルなのでお役所街ワイルクではお昼時は行列ができる人気のお店だ。メニューが豊富で日本食ベース、選べるお惣菜がどれもおいしい。
TASTY CRUST/古きアメリカのドライブインスタイルを今も残す、老舗のコーヒーショップ。数年前までは旧式のジュークボックスも残っていて本当に格好良かった。パンケーキが有名なお店で週末はローカル家族で大変にぎわう。
CUPIE’S Drive In/所変わってカフルイにあるこちらも老舗のドライブイン。注文してピックアップした料理をオープンエアーのベンチで食べられるようになっている。ホノルルには多いがマウイにこのスタイルの店は少ない。

マウイ島のワイルクはサトウキビ工場の労働者やカフルイハーバーから上陸する水夫たちでにぎわった古い小さな街だ。マウイ郡や州政府の官庁があるにもかかわらずプランテーション時代の風情を今でも残している。

ミツさんの住んでいたバンガローはそんな小さな街のマーケットストリートを横にはずれた所にある。かつては旅人たちの木賃宿としてにぎわった木造のアパートは博打に明け暮れる水夫たちのたまり場だったそうだ。その界隈は夜になると奇妙な人たちが現れるちょっとスリリングで不思議なスポットだった。小さなキッチン付きのワンルームにすんでいたミツさんは、何かにかこつけてよく私たちを招いてごちそうしてくれた。

ふた昔前のマウイには日本から語学留学に来る学生などおらず、サーフィンなど海のスポーツが目的で来る若者たちが多かった。彼らは少しでも長く滞在するために切り詰めた貧乏生活をしていた。そんな彼らに「あんたどこから来とるの?」と、声をかけてごちそうしてくれるのがミツさんだった。レストランで話しかけられた人、誰かから紹介された人、それぞれ知り合い方は違うけど、ミツさんのところで友だちになった人同士も多い。ちょっとしょっぱいけど懐かしい日本の味とローカルフードで、お腹がすいている日本人をいつももてなしていた。
  
ミツさんの小さな部屋の壁一面には、そうして知り合った友達の写真が何枚も何枚も貼付けてあった。知っている顔、知らない顔、帰国してしまった人、ここに根付いた人。誰にもらったのかその下には日本地図も貼ってあり、飲めないわたしはいつもそれを眺めていた。

「一度は行ってみたいもんよのう」。日本に行ったら、やっぱり桜と富士山が見たい。誰と誰にあって、おいしい物を食べて酒を飲みたい。きれいな女の子を紹介してもらおう、そんな話ばかりしていた。

とにかくみんなと飲むのが好きで、相手が飲めなくなってもひたすら缶ビールのふたを開けてすすめるのが好きだった。

「あれはむかしから、仕方ない。そういう風にできている。」

酔っぱらってくるとよくつぶやいていた。

お嫁さんももらわず、子供も持たず、趣味と言えば魚釣り、こつこつと料理をしながら生きてきたミツさんのあれは人生論か、はたまた愚痴だったような気もする。 “仕方ない、そういう風にできている。“という言葉がマウイにもミツさんにもぴったりあっていた。そういえばミツさんが怒ったところは誰も見た事が無かった。

吹き寄せられる雲が山にかかって春先はワイルクの街がいつも曇りがち。サトウキビ労働者のプランテーションタウンは日本の街のように道幅も狭くてなんだかとても懐かしい。真ん中の谷がイアオ渓谷へと続く入り口。
一番手前の木造の建物がバンガロー。夏の夕暮れには手前の歩道の段によくミツさんが腰掛けて夕涼みをしていた。青いテントの質屋は今はもう無い、写真は7年ぐらい前の良く晴れた熱い夏の午後、ミツさんはお昼寝していた。
明け方の雨が無くなってこの黄色の花が咲きだすと、ハワイに短い春がやってきたしるし。ゴールデンシャワーの強い花は青い空にパキッと鮮やか。初夏まで咲き続けるので2カ月ぐらいの間ずっと見る事になる。

やがて一緒に飲み明かしていた若者たちはひとり、またひとりと結婚し子供を持ちミツさんの部屋に集まることが少なくなっていった。日本から来ていた人たちも滅多に現れなくなった。ミツさんはこつこつ仕事を続けて、飲みたい時は一人でバーに出かけて飲んだ。 稼ぐお金と自分の飲み代、みんなに振る舞う食費はどう考えてもバランスがとれてなかったように見えた。

それでもBBQやサンクスギビング、 人が集まる機会には誰かから声がかかり、 必ず食べきれないほどの料理を持って来てくれるミツさんがいた。いつのまにか呼んでもらっていた若者たちが呼んであげる方に変わっていた。

2年ほど前だったろうか、風邪をこじらせ体調を崩しよく咳をするようになった。一旦出始めると止まらない、ついにあんなにヘビーだった煙草もやめた。飲みに行くときぐらいしか出歩かなかった人が、真新しいスニーカーを履いて新聞を買いにいくのを見かけるようになった。飲み会に呼ばれてもあまり飲まなくなっていた。誰かがミツさんの料理が変わったと言い出した。しょっぱくなくなってきたのだ。

ハワイは折からの不況で急激に経済が落ち込んでしまい、ローカル相手のレストランでさえも大きなダメージを受けた。ミツさんは職を失った。失業保険を受け取ることはできたが、薬も医療も大変高いアメリカでは保険を持つのも医者にかかるのも本当に大変だ。

2009年の夏、いつものように食料品を買いにマーケットにひとりで出かけていき、意識を失って倒れた。

友達の一人が自宅に電話してもでない事を不振に思い、救急車で病院に担ぎ込まれていたミツさんを探し当てた。

丘の上の病院の最上階の部屋からはワイルクの街と海が見え、「ミツさん、人生で最高のオーシャンビューを手に入れたね」と、なだめてはみたが本人は退院すると言って聞かなかった。ケアーワーカーの女性は私たちに 誰か一緒に居てくれる人がいなければ「人道的にはもう退院させられないファイナルステージ」にいると言った。

多くのハワイの家族 同様ミツさんの家族も、いろんな島に分散して住んでいる。ハワイ島、オアフ島、そしてミツさんがマウイ島。

家長であるお兄さんは実家のあるハワイ島にミツさんを連れて帰ろうと考えたが、ミツさんは90歳を超える高齢のお母さんや70歳を過ぎる兄弟たちに迷惑をかけたくない 友達がたくさんいるこの島にいたいと、マウイに残る事を望んだ。同じ末っ子の私にはその選択が悲しかった。

一旦病状が悪化すれば飛行機しか無いハワイでは、移動がどんどん難しくなる。誰もが穏やかにでも必ずやってくるその時の事を考えていた。

一カ月半後、誰がどう掛け合ったのか、状態が安定しキモセラピーを受け始めた頃、ミツさんは退院してバンガローに戻った。保険が利かない病院の支払いは恐ろしい金額だったに違いない。

ミツさんは退院して一番に海を見にドライブしてもらったという。「きれいな所よなあ、ここは」そう言っていたそうだ。

昼間時間のある人が検診の付き添いをし、夜は男たちが“飲みに”でかけて様子を報告し合った。「 治らないのにやったってしょうがない」副作用が出て間もなくミツさんはキモセラピーを止めてしまっていた。

話 を聞いた昔の仲間 懐かしい顔が一人、また一人と、ある人は家族を連れてある人はたった4日間の滞在で、 日本や他島からお見舞 にやってきた。

にぎやかに過ごしたその冬12月の中頃、電話しても出なかったので一番近くに住んでいた友達が見に行くとベッドから起き上がれなくなっていたミツさんがいた。再入院、そして間もなくワイルクを離れハレアカラの山腹にあるホスピスに移動していた。 ミツさんは病室の壁にバンガローの部屋にあった友達のコラージュ写真を額に入れて持ってきていた。知っている顔がいっぱい、若かった自分もいる。

見舞いにいくとホスピスの先住人たちに紹介し、インスタントカメラで写真を撮ってくれた。何か買ってきてほしい物がある?と、聞くと「キムチと梅干し」と言った。「帰りたい」と繰り返していた。

 
2月、2週間ほど見舞いにいけなかった間にずっと痛かった歯を抜いたらしい。全身の痛み止めにモルヒネをもらっていたからかなり強い麻酔をかけられたのではないかと思う。治療した後から少し様子がおかしくなった。それから間もなくお見舞いにいってもしゃべれない、反応しない、という状態になり誰とも無く、今のうちに会いにいっておいた方がいいのではという話がでた。

話を聞いて3日目の昼過ぎ見舞いにいくと、そこには口を少し開けて、ため息のように息をする遠い目をしたミツさんがいた。痛みは感じないように処置されている。看護士が反応は無いが声は聞こえると教えてくれたので、話しかけた。指先が変色し始めていた。同じ看護士がよどむ事も無く「死への準備に入っている」と、教えてくれた。延命措置はとらないのが本人の希望だった。家族も間に合わなかった。

翌朝朝6時頃、ミツさんはいってしまった。 天使のように優しい心を持った人だった。

その日オバマ大統領の医療改革法案が苦戦の末上院で可決され 、翌日の3月23日火曜日、大統領による署名でアメリカ史上初となる国民保険への第一歩、医療保険改革案が成立した。
 

丘の上の病院。右の写真、相部屋の病室でも個々のベッドの反対側に一人一台テレビがついているのはさすがアメリカ。テレビの下の張り紙には「Call Before you Fall」。食事に出てくるのはホットドッグにマッシュポテト、ジェロ(ゼリー)にオレンジジュース。目から鱗とはこのこと。ミツさんは「まずいから食べない。刺身を買ってきてくれ」。
ポインシアーナの真っ赤な花は写真に撮るとハレーションを起こす。春の終わり頃に狂ったように突然咲き出すこの花の赤が、曼珠沙華を思い出させる。それにしてもハワイには濃い原色の花が咲く木が多い。
マウイの山ハレアカラは「太陽の家」という意味。今日も早朝サトウキビ畑を焼いた煙があがる。この風景をマウイの人はどれだけ愛してきたことか。ミツさんはハワイから出た事が無い人だった。ハワイに生まれハワイに生きハワイで死んだ。その灰は友人達の手でノースの海にまかれた。

●2010年3月22日64歳、癌で亡くなった私たちのミツさんとそのすばらしいご家族、仲間達に捧げます。