from バスク – 4 - バスク語のサマースクールへ。

(2009.09.02)

8月3日~14日まで、Barnetegi(バルネテギ)というバスク語のサマースクールに参加してきました。

11時と17時の休憩時間になると、中庭にみんな集まってきてコーヒーやビスケットをつまんだり、歌やサッカー、そしておしゃべりを楽しむ。

その様子を書く前に、「バスク語って何?」「フランス語やスペイン語の方言?」「もう使われてないんでしょ?」という人がいるかもしれません。詳しい説明は専門書や専門家にお任せして、ここでは簡単な説明を少しだけ。

バスク地方はフランスとスペインにまたがっていて、バスク語はラテン語を起源にするフランス語やスペイン語と異なる言語です。さらに、似た言語がヨーロッパどころか世界中存在しないといわれています。しかし、日本語に似ている、なんて一部では言われていたり。そんな少しミステリアスなところに人々は興味を抱いてしまうのかもしれません。

歴史の流れでバスク語の話者数は減り、現在では約300万のバスク人の内70万人がバスク語話者だといわれています。現在、北バスク(フランスバスク)と南バスク(スペインバスク)ではバスク語の位置づけが違います。南バスクではバスク自治州とナバラ自治州を形成していて、その中でバスク語はスペイン語と並んで州の公用語になっています。そのため、市役所や図書館などの公共の施設ではバスク語で職員が対応できる体制になっていたり、学校ではバスク語で教育も受けられます。一方で、北バスク側にはそういった体制はなく、あくまでも公用語はフランス語。公共の施設でも学校でもフランス語が使われています。この違いから、市民へのバスク語の浸透度に北バスクと南バスクで差があるのは想像できるでしょう。

話は戻って、今回ぼくが参加したバルネテギは、北バスクの低ナバラ地方にあるUrepel(ウレペル)という小さな村で開かれました。スペインとの国境は目と鼻の先にあり、人口はわずか360人の小さな村。その村にある学校に35人の生徒と6人の先生が寝泊りをして、“Egun on(おはよう)”から“Gabon(おやすみ)”までバスク語漬けの日々をすごすというもの。

陽気でよく笑うミシェル先生は、バスク語、フランス語、スペイン語で先生が説明をしてくれます。でも、終盤は全てバスク語の説明で、かなり苦戦しました。
数字の勉強をした日の午後に、隣村の市場に行って値段や生産者をたずねるという課題が出されました。親切にたくさん説明してくれると、逆に混乱してしまう…。
Txalaparta(チャラパルタ)という打楽器に挑戦。太鼓のばちの様な棒で2枚、または3枚の板を2人で交互に叩くシンプルな楽器。でもシンプルなだけに、2人の息が大事。

参加した生徒はさまざまで、パリっ子、ブルターニュ人、カタルーニャ人、ガリシア人など。そして一番多かったのがバスク人。彼らはバスク人の親を持ちバスクで生まれ育ったけれど、バスク語を母語にしなかった人たちです。聞いてみると、両親同士はバスク語を使っていたけど、親子間ではフランス語を使っていた人や、両親も母語がバスク語ではなかった人など、背景もさまざまでした。

ぼくの入った初級クラスは生徒が6人。他のクラスの人は半年以上、長い人は何年も勉強している人たちで、初日からバスク語でみんなコミュニケーションをとっているのにビックリ。いきなりバスク語の洪水に呑みこまれてしまいました。でも、授業が進むにつれてバスク語が少ーしずつ分かっていきました。授業で習ったことをすぐに教室の外で試せるのは本当にいい機会。最初はなかなか苦戦したけれど、授業を重ねるごとに、話せるバリエーションが増えていくのを着々と感じました。みんな本当に楽しそうによくしゃべる。でも、それと同時に「言いたいことが伝わらない」「言いたい単語が頭の中でみつからない」、そんな悔しそうな表情をしたり、時には机を叩きながらみんな話していました。誰もが持つ言語の困難さやフラストレーションをお互いに理解しあえるこの空間と、若い生徒も年配の生徒もみんな一生懸命に言葉をつむぎ出して話している姿をみて、ぼくもこの人たちと一緒にがんばろうという思いが強くなりました。

いろんなアクティビティーがあり、この日はバスクボーリングに挑戦。6本の木の棒を角材を投げて倒すボーリングのようなスポーツ。角材を投げるのはこの地域特有のもの。
pintxo(ピンチョ)大会も開催。グループごとにオリジナルピンチョを作って審査。バスクの旗をマネしたのを作ったグループもありました。ぼくのグループは入賞すらできず…。
夕食が終わればここでもやっぱり歌。ワインやチャコリーを飲みながら、24時でも25時でもみんな楽しそうに歌う。ぼくも、歌集を見ながらたくさん一緒に歌いました。

学校の前の広場にはときどき村の子ども達がいて、彼らとの遊びを通してもバスク語の勉強をしました。言葉が不自由なぼくに、子ども達はいろいろ話しかけてくれて、なんだか自分も小中学生に戻ったような気持ちになりました。子ども達はバスク語も分かるけれど、友達や家族の間ではフランス語を話していました。やっぱり学校や家でもフランス語を使っていることが影響しているんでしょう。

隣村のバルや レストランなどでもバスク語を話せば通じますが、会話に耳を傾けているかぎり、常に使っているという人はほとんどいませんでした。でも、隣村の夏祭に行ったとき、大人も子どももバスク語で歌をうたって、バスクのダンスを楽しんでいる姿にであいました。小学生から大学生くらいまでの男の子と女の子が民族衣装を着て、次々とダンスを披露して、そして最後のダンスでは男の子が「みなさん一緒に踊ってください」と声をかけると、おばあちゃんやおじさんや女の子が、「待ってました!」とばかりに輪に入って彼らと踊りだしました。

村の子どもたち。「将来は大きい町に住みたい?」ときくと、メガネをかけたアンチョンが「馬のウンチの臭いをかぎながらでもこの村で暮らしたい」とステキな答えを返してくれました。
隣村の子どもイニャキくん(7歳)。写真を撮る前は散々はしゃいでたくせに、カメラを向けたら急に大人しくなった。txapela(チャペラ)ことベレー帽が似合うやんちゃ坊主。

バスクの音楽と踊りが身体に染みついている様に、自然に楽しそうに踊っているのを見て「彼らはバスク人なんだな」と感じました。たとえバスク語を使っていなくても、大事なのは言葉だけじゃなくて、その土地に生まれ育って、文化や伝統を受け継いでいくことが、同時にアイデンティティーを受け継いでいくことになるんだ、と彼らを見て分かりました。

村を去る時に子ども達に「また来年も来るの?」ときかれました。せっかく知り合えたこの村の人たちと村と、そしてバスク語に会いにまた来年もウレペルを訪れたいなと思っています。

女の子のスカートが丸~く広がり、男の子の衣装の背中についてるリボンがキラキラと舞ってきれい。