日本で失われた信心と自然がある
神々の島、バリ島の満月祭へ。

(2011.07.21)

善と悪のダンスは終わらない

蒼い月が浮かんでいた。周囲を虹色の光の輪が囲むそれは美しいもの。溢れんばかりに降り注ぐ月の光を浴び、長閑な田舎のあぜ道を、夕食を終えホテルへと向かう帰り道。ふわっふわっと目の前を横切る小さな灯。ティンカーベルさながらに蛍が舞い遊んでいるのだった。どこかからともなく聞こえるガムランの音、そして幾層にも重なる蛙の大合唱が耳にこだまする。満月の夜だからこそ叶った自然の夜の芸術。幸せとはこういうものなのかとしばし足を止め、月を見上げていた。

インドネシア・バリ島での、ある5月の満月のこと。ヒマラヤのベイサカの谷に残された言い伝え — その日は天地が繋がる特別な日。仏教にも由来しウエサク祭と呼ばれ、各地で儀礼が行われる。天と地…..,そうバリ島では、光と闇、聖と俗、相反する2極でこの世は成りたちバランスをとるダンスが無限に続くという宇宙観を持つ。街の大木、石造りの神さまや家の玄関にあしらわれた布の白黒の格子柄は、白が陽、黒が陰を意味するものだ。有名な仮面舞踏の善のバロンと悪のランダの争いも終わることがない。コインの裏表のように、それら2つは一体であることを現している。

世界中の観光スポットとして名高いバリだが、ガムランを始めとする芸能も宗教儀礼が基にされ、本来は神への捧げものなのだ。特に「芸術」を現す単語がない。美術も音楽も“祈り”として捉えられるものであり、つまりは日常の一部で呼吸のようなものなのだろう。

祈りとはなんなのか?日々、何かを信仰して暮らしているかと言えば、そうだとは言いきれないものがある。現代において薄れてしまったものの1つが、この「信心」だと言われるが、ほんの少し前の日本には宿っていたもの。バリでは先史時代からのスピリットを連綿と継ぎ、今もなお忠実に残している。

ふと気付けば蛍の姿をした妖精が増えていた。夜も深け、自然界の祭りは始まっていく。そろそろ帰路につこう。蛙の声は、人の心の調和を保ち、安らぎをもたらす効果があると聞いたが、なるほど、その通りなのだ。


繰り返される祈り
全てはひとつのものという信仰

バリはヒンドゥー教が信仰の主軸となるが、伝来元となるインドとは少し違いがある。シバ、ビシュヌ、ブラフマン、破壊、維持、創造を司る三大神は有名だが、その上にサンヒャンウィディー・ワソという全ての神を統合した唯一神が存在する。他にも太陽の神、稲の神、竃の神など、生活に根付く数多の神が人の心には存在し、日がな一日供物と祈りの繰り事を欠かさない。それらをあえて分けて祈ってはいるが、本当は全てこのサンヒャンウィディー・ワソ神の仮そめの姿だと信じられる。儀礼の前に高僧が神を呼ぶ儀式があるが、どの神を呼んでいるのか、その名に格別の執着はない。どんな神であろうとも、唯一神が存在するだけなのだ。

毎日主に女性の仕事として、ヤシの葉で作られた器に色とりどりの花を添えて100個以上もの供物が作られている。天界の神々は美しいもの、優れたものを好むと言われる。だから美しい細工の供物や、きれいな音色のガムラン、心を打つ物語が捧げられるのだ。ただし清浄な心から発されたものであることが前提となる。供物は自然界から頂く身近な植物で作られ、再び自然に還りゴミとはならない。女性たちは家事と供物作りで一日が忙しく過ぎいく。「畑を営みその幸を頂き、子を育て、嫁さんも両親も大きな家族で共に暮らすけど、争いはなく平和な毎日ですよ」と、旅のガイドをしながら5人の子供を養う40代のシュクラさんは語ってくれた。

日常に捧げられる数百の供物と祈りに加え、月に一度巡る満月には沐浴し身を清めて、祈りのために寺院へ向う。シュクラさんの地元、プラダラム ガンダマユ寺院でも同様の満月祭が行われていた。始まる前には僧侶による聖水で清められ、頭上高く掲げる花を持ちながらの3回の祈りと、その前後の1回ずつの祈りを捧げられる。全ての一連の儀式は忠実に執り行われる。

満月祭のために、ひしめき合うほどの多くの人びとが集まり、数回の入れ替えが行われ、寺院の外では色とりどりの供え物を頭上に掲げ列を作り自分の順番を待っている。他にも210日に一度の大きな儀式、ガルガンと呼ばれる祖先の霊を迎えるものや、ニュピと呼ばれる新年を祝うもの、人生儀礼など、数えきれない地域のアダット(慣習)があり、毎日どこかで絶えず祈りは繰り返されている。


宇宙のリズムごとし
満月の夜に全てはリセットされる

この供物類にはお金もかかる。「だから、貯金はないですよ」と、シュクラさん。「それでも食べ物は畑から採れるし困ることもないです。家族はあたたかく、不自由もなく、自分たちに誇りを持っていますよ」とも語った。汗水流して稼いだお金は満月の日に消えてなくなる。そうしてゼロになりリスタートすることを何も疑わず、むしろ歓びとして生きている。バリで満月は始まりを指し示す。お金という現実の形は月に一度消えてなくなるが、その代わりに目に見えぬものを得ている。

こんな昔話がある。バリ島は元々、神と自然しか棲んでいない島だった。そこに人が訪れたが、入島を断られた。だけど、くる日もくる日も人は祈りの心と共に舞踏と音楽を捧げた。神はようやくその門戸を開き、とうとう島に入ることが叶った。だから今でもガムランは、観客からの喝采を得るものでなく、神に向けられたものとし無心に続けられる。ただ舞い、ただ奏でる。そして、純粋な行為だけとなったとき、深い輝きを放つのだ。

東京と同様に、現代らしい娯楽もある。金銭価値は異なるので表面的な差異はある。だが、中身は同じ「楽しさ」であり、特別ではない。ただ、それらも皆、信仰(神)の中に在るものなのだ。バリという名の由来は、サンスクリット語の「ワリ」にあるとも言われ、それは“供物、捧げ物”を意味する言葉。この島自体が、神への捧げものなのである。


生態系が守られる中で
自然に生まれた敬意と感謝

バリの果実は、実に活き活きとしていた。勝手な間引きが行われずに育った実というのは、とても生命力に富んでいる。人で言えば熟した実りの成年期だ。多くの命が消滅する中、奇跡的実った果物を頂くことに、多くの要素があってこそ成り立ち、今目の前に熟していることに、バリ滞在数日が経った頃、敬意と感謝が生まれてきていた。ごく自然に。

“敬い”とは苦労を経た末、その者だけが心に宿すことのできる美しき光である。現代に失われしものが「信心」ならば、私達はそのために苦しみ、そして再び思い出す為に、今この時代を生きているのかもしれない。

何故人は祈るのか?どうしようもない苦境が訪れた時、果てに祈らざるを得なかった経験は、きっと誰の上にもあるだろう。決して抗えないものがある、人智を超えたものが必ずある、人は皆、無意識にそれを知っている。だから信仰し、だから祈る。現代は利便性、安全性を手に入れた、と、同時に失ったものもある。

日々の暮らしと共に、呼吸のように自然に祈りが在る人々がいる。何故人は祈るのかその答えを求め、その姿を見、知りたくて、ここバリ島の満月祭を訪れていた。

「“疑わないこと”、それが“強さ”となる」世界的人気を誇る漫画「ワンピース」にて冥王シルバーズ・レイリーは言い放つ。信仰が日々の営みと同等に存在しているバリ島 — 対峠し崇める神でなく、ごく自然に、命を分ち合うように、共に在り信じること。そこに、もはや分離はなく神と人がひとつになる。そうなった時、怖れは消え失せている。人の行為は神の行為、人の心は神の心、歓びも、苦しみも。そして、その交わりの中心に空はあり、そこにこそ世界の真の姿があると思われた。くしくも、天地が繋がると言い伝えられる5月の満月に、光に闇が溶け、闇を光と呼べるように、2つだったものは消え、1つとなった。

バリは至極自然を感じやすい。神も精霊も人も、植物も、動物も….、五感が開き、森羅万象の全てが繊細なバイブレーションで響き合っていた。遠い過去に置いてきた記憶が呼び覚まされるかのように。あれはヤシの木の言葉なのか、風のそれなのか、人なのか、祈りなのか….。



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