from 北海道(道央) – 8 - 史実に出会い、未来への示唆を得る。

(2009.09.11)

北海道で「刑務所」と言えば……。

北海道で「刑務所」と言えば、恐らく「網走番外地」を想像されるのではないでしょうか?

実は、網走刑務所の前身である「釧路集治監網走分監・網走囚徒外役所」が開設される9年前のこと、1881(明治14)年9月、東京、宮城に遅れること2年、それに次ぐ明治以降全国で3番目に設置されたのは「樺戸集治監(かばとしゅうちかん)」であり、北海道で初めての集治監だったのです。

今回の「政権交代」が江戸から明治への「明治維新」以来のエポックであるとするならば、その「明治維新」後に何が起こって、世の中はどのように進んでいったのかを知るためにも大変貴重な財産が、空知(そらち)の月形町に「月形樺戸(つきがたかばと)博物館」として残っているのです。

「旧樺戸集治監本庁舎」。
移築再現された収監室。

故・司馬遼太郎先生も言葉を失う。

明治維新後、一部士族たちによる新政府への反乱、自由民権運動を基にした政治犯、凶悪犯などの「重罪犯」を隔離するためには北海道が適地であるとの判断の下、伊藤博文内務卿の指示により、月形潔(つきがた・きよし)を調査団長(後の初代「典獄」=所長となる)として、北海道への集治監の具体的設置が検討されたのです。

現在の「月形町」という地名は、この月形潔氏に由来します。北海道内ではアイヌ語に由来する地名が多い中、このように特定の人物の姓から地名が採用されているケースは稀です。ちなみに、樺戸という地名は、「樺戸(カバト)」=「河骨という水草が多い河・沼」というアイヌ語から由来していると言われています。

故・司馬遼太郎先生は『街道をゆく(15) 北海道の諸道』(朝日新聞出版)の中で、次のように書いています。

「木造板壁の黒っぽい和洋折衷の建物である。なにげなく近づいて、玄関への十段ばかりの石段がすりへっていることに気づいた。どの段もはげしくくぼんで波うっており、いったい述べにして何千万人の足に踏まれればこうなるのかとおもうと、息をのむ思いがした」と。

月形町郷土史研究会会長である熊谷正吉さんは、「囚人が足につけられた鉄丸によって削られたと説明には書いているけど、それ以上に「歴史の重み」を感じていただければ」と、厳然と存在する歴史的遺産を前にして思いを語ってくださった。

恐らく、故・司馬遼太郎先生は著書において、「新十津川町」への道すがらここに立ち寄り「集治監」という章を立てたのでしょうが、当時の出来事をあまりにもリアルに想像して言葉を失いかけたのではないかとさえ想像してしまいます。

「右から司馬遼太郎さん、熊谷正吉さん、須田剋太さん。(写真:熊谷正吉会長提供)」
展示品の一部。
熱心に説明くださる熊谷正吉会長。

「大倉財閥」の存在。

当時の囚人収容は、「江戸時代の行刑」が未だに色濃く残っていた当時、彼らの労力を駆使して開墾にあたらせ、道路開削、架橋、灌漑溝掘削、炭鉱開発へと強化され、想像を絶する極寒の中、多くの犠牲者を出し、脱走を試みる者も数多く現れるなど、日本国憲法施行後の今日では考えられないような苦役が課されていたのです。これは、網走囚徒外役所においても同様だったようです。

その一方で、近代史における北海道開拓の各断面を注意深く調べてみると、「大倉組」という名前をあちらこちらで見かけることになります。

「大倉財閥」の創始者である大倉喜八郎(おおくら・きはちろう、1837-1928)。彼は、今の新潟県新発田市の出身で、鉄砲商から身を立て、戦争需要によって大儲けした「死の商人」とも称されたそうですが、その息子である大倉喜七郎(おおくら・きしちろう、1882-1963)の時代に、この「樺戸集治監」が大倉組の手によって作られたことが分かります。

ちなみに、冬のスポーツの花形の一つでもあるノルディック・ジャンプ競技。札幌市中央区宮の森にある「大倉山(おおくらやま)ジャンプ競技場」。1931(昭和6)年に大倉喜七郎男爵が私財を投じて建設し、完成後に札幌市に寄贈したことから命名されたという事実を、北海道民の多くが忘れているはずです。

後日ご紹介する予定の「サッポロビール博物館」でも、同様に「大倉組」の関与を裏付ける資料を見かけることができます。

大倉山ジャンプ競技場

当時の集治監全容を再現。
大倉組樺戸出張所からの請求書。

史実はかく語らん。

「新撰組」の生き残りであったとされる永倉新八(ながくら・しんぱち、1839-1915)。彼は、小樽で亡くなったという記録が残っていて、小樽市内でも彼が確かにそこに生きていた足跡が残っています。

その永倉新八は、1882(明治15)年に月形典獄の招きで剣術師範として典獄や看守たちに剣道を教えたという事実が、1971(昭和46)年頃に発見されたのです。杉村善衛(すぎむら・よしえ)と名前を変えて。

このように、北海道のあちこちに、激動の「明治維新」後の混乱と現代へとつながる発展の足跡が残されているのです。

今日、月形町は、札幌からもほど近く、米や野菜の栽培のほか、北海道を代表する「花卉」栽培の街としても成長し、のどかな田園風景が広がる街へと変貌を遂げています。

湯量豊富な温泉も湧き出ていて田園風景に埋没しそうになりますが、注意深く歴史に思いを馳せなければ、先人たちのご苦労を知ることもなく「漫然と現代を生きる」ことにもなりかねないということを、月形の町では教えてもらうことができるはずです。

札幌へと立ち寄られる機会がありましたら、司馬遼太郎先生の文庫本を片手に、是非月形町へと足をお運びくださいませ!!

月形温泉など

永倉新八=杉村義衛。
「月形温泉」。