from 北海道(道央) – 42 - 「増毛」。そこに確かに存在する歴史の一端を探る。

(2010.11.01)
小樽市とキロロリゾートとを結ぶ一般国道393号は、数年前に全線が開通。そこに毛無山があり、展望所が整備されている。小樽港を含めた小樽市街を一望することができ、観光で来られた皆さんに「小樽の歴史」を街の発展に沿って紹介するには絶好のポイントでもある。(写真は、国土交通省北海道開発局小樽開発建設部提供。)

 

「毛無から増毛へ」。

突然ですが、「毛無山」(けなしやま)にある「毛無峠」と言えば、長野県高山村と群馬県嬬恋村とを跨ぐ峠が有名だが、調べてみれば、全国津々浦々に「毛無山」は存在する。なぜか……。

津々浦々に存在する「毛無山」の中でも、アイヌ語の「ケナシ」=山林という言葉を漢字の「当て字」にしてみたら、本来の意味合いとはまったく逆(?)の名前が付いてしまったという山は、小樽市の毛無山以外には存在しないだろう。
 
しかも、本来意味するところの「山林」である「毛無山」からは、空気が澄んで天気がよいときには、日本海の対岸にある増毛(ましけ)方面が見えるという、何とも「お目出度い」場所なのである。

「毛無(けなし)から増毛(ましけ)へ」。

自虐ネタで恐縮だが、前回の記事(一番右下の写真)でショックを受けた頭髪の後退。しかし、毛無峠から増毛を見ることができれば、恐らく「増毛(ぞうもう)」間違いなし!!

毛無山から増毛方面を見ることができる写真撮影に数回チャレンジしたが、成功していない。その結果が、頭髪に影響しているのだろうか。写真は、小樽・天狗山の山頂から撮影した増毛方面。なお、実際に見えるのは雄冬(おふゆ)峠や暑寒別(しょかんべつ)連峰。(写真は、国土交通省北海道開発局小樽開発建設部提供。)

 

増毛(ましけ)駅は、映画『駅 STATION』の舞台。

とは言え、そう簡単に毛無山から増毛方面まで見渡すことができるかと言えば、世の中そうは甘くはないのだ。ということで、この際、直接小樽から「増毛(ましけ)」へと、出かけてみることにした。効果を期待して……。
 
増毛町は、札幌から日本海沿岸を走る一般国道230号で、一路約2時間半の距離にある。

「高速道路無料化実験」の効果があったかどうか定かではないが、今年のGW以降、増毛への観光客入込数が大幅に増加したらしい。
 
一方、新千歳空港からはJRを利用する「旅」もお勧めだ。

乗り換えが多くなるが、新千歳空港から快速で札幌、札幌から特急で深川、深川から留萌、留萌から増毛へと、約4時間かかるが、乗り換えを楽しみながらの風情ある旅の果て「増毛駅」。

増毛駅に辿り着いてびっくりするのは、駅が「蕎麦屋」さんになっていること(笑)。1921(大正10)年に、深川と増毛とを結ぶ「留萌本線」の終着駅として、駅の歴史は始まった。
 
ちなみに、増毛駅は、1981(昭和56)年に製作された高倉健主演の映画『駅 STATION』の舞台にもなり、映画で使用された『風待食堂』は、今も増毛駅前に「観光案内所」として映画の記録を留めている。
 

JR増毛駅。びっくりしたのだが、駅の中は「蕎麦屋」さん。ちょうど昼時だったのだが、大勢の旅人で駅は賑わっていた。
留萌本線の終着駅でもある増毛駅。増毛から南は断崖絶壁であり、鉄道の敷設は困難だったのだろう。今から30年程前に、札幌・増毛間が、ようやく日本海側経由の陸路で結ばれた。

 
 
「北前船」寄港地としての街並みを残す。

歴史に「増毛」が登場するのは、1706(宝永3)年に、松前藩藩士・下国家が「マシケ領」を知行したときと言われている。

その約50年の後、能登出身で道南の松前で商いをしていた村山伝兵衛が、1751(宝暦元)年に函館奉行所から増毛場所を請負わされることとなり、出張番屋を設けて交易を始め、それから本格的な和人の定着が始まったとされる。
 
町名の由来であるアイヌ語の「マシュキニ」=かもめの多いところの意味するところは、鰊(にしん)の到来によって、鰊を狙うカモメたちが一斉に海面を飛び回るところにあるくらい、鰊の豊漁によって、「北前船」を通じた交易によって成長した街なのである。
 
その当時の賑わいが、増毛の街の至るところに残っていて、「北前船」寄港地であった道南の江差や松前などと、街並みを比較してみることも、北海道の歴史を学ぶためには欠かせない。

もちろん、小樽と増毛との間は、小樽開港以来「船」で結ばれ、その歴史的な結びつきは深いのだ。

増毛町内の建物。どことなく、道南の北前船寄港地である江差町の雰囲気に似たところを感じる。
国指定重要文化財(建造物)「旧商家丸一本間家」。後に「国稀酒造」を営むこととなる本間泰蔵(1849-1927)。佐渡・佐和田町に生まれ、1872(明治6)年に小樽に渡る。その2年後、増毛に移り住み呉服屋を営み、そこから漁業、醸造、海運、土地、山林、倉庫などなど、多角経営によって一大財産を築いた本間家の栄華が残されている。
旧旅館・富田屋。1933(昭和8)年に建てられた木造3階建ての旧旅館。現在は、休業・未公開。風情はあるものの、写真上部にも写っているように、増毛の街並みに縦横無尽に天空を走る「電線」は、景観を損なう一因となっているようにも感じる。
高台にある増毛小学校は、開校130年を迎える1936(明治11)年に建築された木造校舎として、北海道内唯一の現役校舎。今も小学校として利用されている。
1890(明治23)年に初点灯された「増毛灯台」からは、増毛の港を一望することができる。灯台無人化のうねりには抗うことができず、1958(昭和33)年に無人化となった。増毛灯台付近から眺めた増毛港。鰊の「千石場所」として栄えた港は、現在も沿岸漁業、養殖漁業の基地として重要な役割を果たしている。
「寿司のまつくら」さんでいただいた「特上生ちらし」。ご覧のとおり、絶品。ふんだんに盛られた海産物の底の方にある「ご飯」を発見するのが大変(笑)。高速道路無料化実験効果によって、旭川方面から多くの皆さんが、増毛の寿司を食べに足を運んだと聞いている。

 
 

今度は「北海道日本酒ツーリズム」??

さて、増毛町には北海道内でも道南、札幌近郊に次ぐ酒造りの歴史を伝える、1881(明治15)年に創業した日本酒の老舗「国稀(くにまれ)酒造(株)」が、今も往時の姿を残している。
 
「醸造用玄米」(酒造好適米)の作付面積は、兵庫、新潟、長野の順に多いのだが、北海道も作付面積は全国シェアの1.3%程度にしか満たないものの、生産している。
 
国内の品種別シェアでは、恐らく「山田錦」、「五百万石」、「美山錦」が他を引き離して御三家を誇っているはずだが、北海道では「吟風(ぎんぷう)」の作付面積が多く、最近では「初雫(はつしずく)」、「彗星(すいせい)」といった品種が登場している。
 
国稀酒造でも、2001(平成13)年に始めて地元の米を使った地酒「本醸造 暑寒美人」を発売した。

国稀酒造の歴史は、語れば切りがなくなるので、この辺にしておくが、今、北海道では「ワイン」だけではなく、道産酒造好適米を利用した日本酒造りが盛んになっている。

アルコール消費量が世界的傾向と同様、国内でも減少している中、日本酒も苦戦を強いられているようだが、北海道の美味しい食材に加えて、「北海道の歴史」を肴に道内に広域に展開している日本酒の酒蔵を回ってみる「ツーリズム」も、なかなか楽しそうだなぁと思う、昨今であった。
 
いずれにせよ、鰊が産卵するためには、豊かな「海の森」が必要であり、海中には「昆布」などの海藻が豊富でなければならない。

そうだ。思い出したが、「毛無から増毛へ」。

小樽と増毛とを結んだ「北前船」という縁は、日本人男性昔からの頭髪の悩みを解決する「旅」への、実は「キックオフ」であったのかも知れない。

「国稀酒造」では、日本酒造りの工程を学ぶとともに、当時の建物内部を紹介していただけ、さらには試飲を通じて好みの日本酒を購入することができる。

 

1,000m級の山が連なる「暑寒別(しょかんべつ)連峰」。暑寒別岳から流れる伏流水が、「国稀酒造」の日本酒造りには欠かせない。北前船にとっても、貴重な飲料水の補給場所ともなっていた。
北海道内の酒造好適米のうち、作付面積が最も多い「吟風」。65%に精米した状態。