from 北海道(道央) 番外編 《2013夏イタリア》vol.8 キリストも足を踏み入れない。
マテーラにて、イタリアを思う。
(2013.09.18)
「バチカンの囚人」とファシズムとの和解。
イタリアの国内においても、ほとんど脚光を浴びることのなかった街。マテーラ (Matera)。そのマテーラの存在を世に知らしめる契機となった一冊の本。『キリストはエボリに止まりぬ』(カルロ・レーヴィ著。清水三郎治訳。岩波現代叢書)がイタリアで発刊されたのは1945年。イタリア国内のみならず、各国語に翻訳され、またたく間に南イタリアの実情が広く世界に知らしめられることになった。
ミラノ編にて、1861年のヴィットリオ・エマヌエーレ2世の国王即位による「イタリア王国」成立の歴史まで記した。イタリア統一のために欠かせない人物は、ナポリ編でご紹介した「イタリア統一の三傑」であるカヴール、ガリバルディ、マッツィーニであった。
新政府は、バチカン及びラテラノ宮殿の教皇庁の占有を認めることと引き換えに、政府に対して年額約32万リラの支払いを求めたが、当時のローマ教皇・ピウス9世はこれを拒み、自らを「バチカンの囚人」と呼びバチカンに籠り、イタリア政府との関係を断絶する。
この関係を改善し、今日の「バチカン市国」の誕生を認めさせる「ラテラノ条約」を1929年に結ぶこととした当事者の一人は、なんと当時のムッソリーニ首相であったのだ。
1861年の統一以降もイタリアは他国との戦争を重ね、特に第一次世界大戦への参戦によって経済的な負担が重くなり、都市部での労働者の騒乱、農村部での貧農による暴動が多発。それが社会主義、労働運動の展開にもつながっていくことになる。
かくして反ファシストたちは、南イタリアへと流される。
また、1880年以降、イタリア・ユダヤ・スラブの人たちが安定を求めてこぞってアメリカへと移住することになるが、アメリカの移民史を4段階に区分けすると、17世紀以降の「入植・移民地時代」、18世紀に入っての「旧移民期」、そして3段階目の「新移民期」がこの時期に位置付けられている。アメリカに移民したイタリア人の多くは、南部出身者、シチリア島出身者であった。1929年の大恐慌を引き金に、多くの移民はイタリア各地へと戻ったようだが、そのままアメリカに残った人たちの末裔がフランク・ザッパ、ボン・ジョヴィといったミュージシャンであったり、ロバート・デ・ニーロやニコラス・ケイジといった俳優たちだ。
話を戻すと、1921年の選挙結果により、ファシズム運動を掲げる「戦闘ファッシ」からムッソリーニが議会政治に登場することになる。翌1922年に地方都市で行われた労働者たちによるゼネストを鎮静化し、ムッソリーニが組閣令を受け、ファシズム政権が誕生する。
ムッソリーニが国民の支持を引き付けるために行った政策の一つが、先述の「ラテラノ条約」によるローマ教皇との和解であり、これがカトリックに帰依する多くの国民の指示を得ることにもつながった。ヒトラーは、実はムッソリーニの一連の政治手法を学んだようだ。
かくして、『キリストはエボリに止まりぬ』を後年記すこととなったカルロは、1935年の夏、反ファシズム活動の罪により、イタリア南部のエボリにほど近い「グラッサーノ」へと流され、当時の南イタリアの状況を彼の視点を通して、第二次大戦後に著書として発刊したのだ。
マテーラの歴史と今日。
イタリア南部・バジリカータ州にあるマテーラの「洞窟住居と岩窟教会公園」がユネスコの世界文化遺産に登録されたのは、1993年のことだ。
洞窟住居はサッソ(岸壁。複数形がサッシ)と呼ばれ、グラヴィナ渓谷の石灰岩の浸食により形成されているが、こちらもアルベロベッロの住居同様、いつ頃から作られてきたのかは謎である。マテーラ近くのムルジェッキアという集落群からは旧石器時代の出土品も見つかっているが、8から13世紀にかけて、イスラム勢力から逃れてきた修道僧が住み着いたのが、この土地の歴史のスタートなのだろうと言われている。
『カルロ・レーヴィ「キリストはエボリで止まってしまった」を読む』(上村忠男著・平凡社)では、カルロの姉が、流刑地を訪ねる途中マテーラに立ち寄ったときの話は次のとおりだ。
「洞窟の中をのぞいてみるとどうだろう、『地面を切り立った壁にしたくらい穴の中には、寝床とみすぼらしい家財道具、それにぼろ布が乾かしてあったわ。床には犬や羊や山羊や豚がごろ寝していた。どの家族もたいていは洞窟ひとつに住んでいて、男も女も子どもも家畜もみんないっしょに寝ているのよ』」と、そのときの印象を「恐怖体験」として記している。
この強烈な文章が世界の人々の目に触れ、イタリア政府は1952年にマテーラのための3つの特別法を制定し、15年かけて農民を他所へと強制移住させ、建築学上の重要性に鑑み保存運動を進め、今ではサッシを利用したホテルやレストランも開業するに至っている。
「イタリア的悲観主義」とこれからの日本。
そのような歴史的背景を学びつつ、この土地を歩いてみた。当時の生活を再現した資料館を訪ねたが、まさにカルロの姉が表現していたような住まいだったが、洞窟奥にはワインセラーがあり、イタリア各地における生活文化に根付いたワインの意味が理解でき、「ワイン文化史研究家」としては事実に基づく学びを得ることができた。
アルベロベッロの料理も美味しかったが、ここマテーラでいただいた料理も実に美味しいものだった。トマトソースのオレキエッテ、羊と豚肉のソーセージ、ジェラートのどれもが絶妙。恐らく、元々ここに住んでいた人たちには無縁の食事であったのだろうが。
「イタリア的悲観主義」という言葉は、『イタリア的「南の魅力」』(ファビオ・ランベッリ著。講談社)で初めて目にした。その本質的な意味は、イタリアという国家が統一されていく過程に加えて、常に忘れられ、イエスも足を踏み込まなかったとカルロが言う南イタリアの歴史への認識を抜きにして語ることはできないということを、自分はこの旅の最後に悟った。
「家族・地域を中心に、伝統を意識しながらイノヴェーションを求める、権威・権力に対して健全な不信を抱き、労働を目的ではなく自由時間(人間関係)を支える手段にして、人間のコミュニケーションと想像力を重視する、それが今の日本には必要ではないだろうか、そう私には思われるのだ」とファビオ・ランベッリ氏が著書の最後で述べている。この言葉が、改めて心の奥深くに突き刺さることになった、マテーラを含めたイタリアの旅であった。